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教員コラム

2022.07.05 - コミュニケーション学科  沖縄返還50周年と逗子市

今年は、沖縄が米軍統治下から離れ、本土に復帰してから50周年になります。これに伴い、多くの式典が行われました。私の知人で、当時沖縄に住んでいた人は、通貨が変わったり、自動車が左側通行に変わったりしたことを覚えていると言っています。(ただし、自動車が左側通行に切り替わったのは、本土復帰の数年後です。)
ただ、その後も、沖縄には米軍の基地が多く置かれ、平成の末ごろから辺野古に新しい基地を作る過程で、地元の十分な合意が得られているとはいいがたい状況のまま工事が進められているなど、様々な形で、現在に影響を与えています。

沖縄問題というと、どこか遠い土地の話と考える人もいるかもしれませんが、実は、関東学院大学のある金沢八景の近くにも、現在の辺野古の問題と類似した経緯を経た場所があります。
金沢八景駅の、二つ隣に神武寺という駅があります。ここは横浜ではなく、逗子市になりますが、この駅構内には、普通の改札口とは別に、下の写真のような出入り口があります。

これは、駅に隣接した土地にある、米軍関係者の住宅に出入りするための専用の出入り口です。

かつてここは、米軍の弾薬庫がありましたが、実質的に使われない時期が長く続き、草木が茂って、野鳥の宝庫となっていました。そこに、昭和の時代の末ごろから平成の時代の初期にかけて、米軍関係者の住宅建設を行う計画が持ち上がり、地元の意見を全く聞くことなく、日本政府により、工事が進められようとしました。これに地元が反発し、天文学者出身という少し変わった経歴を持つ反対派の人物が逗子市長に当選し、日本政府と渡り合うなど、様々な動きがあり、新聞をはじめとしたメディアでも大きく取り上げられ注目されました。

ただ、現在の沖縄の状況と同様に、当時の逗子市民も一枚岩ではなく、米軍住宅建設への反対派と賛成派に真っ二つに分かれ、争いが続きました。基本的に市長選では、反対派の市長が当選を重ねましたが、ある種の持久戦に持ち込まれる中で住宅建設が進められるなど、既成事実が積み上げられていきました。最終的に、既成事実の前に、反対活動を続けることが実質的な意味を失っていき、現在に至っています。

現在、駅の改札口と反対側には、下の写真のような看板等があり、物々しい雰囲気を醸し出していますが、これは、米軍住宅エリアに自動車で出入りするときに使われるゲートです。

ただ、米軍住宅に使われたエリア以外は、一部には今でも森林が残り、昔の雰囲気をしのばせています。

このような沖縄と逗子市の動きは、平成末から令和、昭和末から平成初期、という約30年の時間差はあれど、その経緯はよく似ています。

さらに約30年さかのぼれば、類似した別の事例もあります。私のゼミナールでは、「人間と自然の共生について考える」というテーマで、伊豆諸島に出かけています。下のストリートビューは、新島にある公園ですが、公園が自衛隊によって整備されたことを示しています。

なぜ自衛隊が公園を整備しているのかというと、新島の南部にある、ミサイル実験場が関係しています。

昭和30年代に、新島にミサイル実験場を建設する計画が持ち上がり、その賛否を巡って、住民が真っ二つに分かれましたが、結局実験場は建設されました。実質的に、その見返りに近い形で、自衛隊によって、公園や道路などのインフラ整備がなされたようです。新島は伊豆諸島の中では、他島に比べてインフラ整備が早く進み、観光客の呼び込みにいち早く成功した島ですが、その背景には、こういった事情も一部関係していたようです。

これらの、戦後それほど経たない時期、昭和末から平成初期、平成末から令和、と時代背景は大きく異なるものの、同じような経緯をたどった事例を見ると、人の進歩のなさを見せつけられ、ある種の虚脱感も感じますが、人々の合意を得て進めるのが理想的であることは確かでも、上記のいずれも事例でも地元の完全な合意を得ることは困難であったとみられ、現実的にどのような対応が適切であるのかは、容易に判断できるものではありません。

一見すると自身とは関わりのなさそうなことでも、人の営みである以上、類似した事例は意外と身近なところに見つかります。そういったものを契機として、色々なことを体験し考える機会を学生たちに与えられるように、日々工夫して講義やゼミナールを運営しています。