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教員コラム

2022.02.24 - コミュニケーション学科 

関東学院大学の最寄り駅である、金沢八景駅の接近チャイムには、「道」という曲の一部が使われています。Youtubeなどで検索すると聞くことができます。この曲を歌う人の出身高校が近くにあるという縁で、使用されているのだそうです。

さて、金沢八景駅から関東学院大学に至る平潟湾沿いの道やその近傍には、色々な意味で奇妙な道があります。例えば、
・駅の近くのセブン・イレブンの横にある、存在理由のわからない道
・六浦川近くにある、不自然に広い歩道とS字型カーブ
・駅近くの神社付近にある、車道に対して斜めになっている歩道と、不自然な三角形の空き地
などがあります。これらがなぜ存在しているのかを学生と調査し、動画としてまとめる活動をしています。下に解説動画を示しますが、かつては合理的な存在であったものが、その後の開発の結果不合理な存在として残っていることが分かり、都市の発展を身近なところで感じることができます。

セブン・イレブンの横にある道が、存在理由が不明であるにもかかわらず、不自然に道幅が広いこと、その近くにある不自然な形のビルがあることなどが、かつての水路の跡であることを示しています。(動画内の絵葉書は、所有者である横浜都市発展記念館の許諾を得て使用しています。)

平潟湾沿いの歩道の道幅が一定でないこと、S字型の不自然な交差点があることの理由を示しています。もともとは、S字型カーブの先の道と、歩道と、その先の道である、セブン・イレブン横の道と丁字路をなす裏道とが、一本の連続した道路であり、その後現在の車道が新設された結果、旧道の一部が歩道として活用されていることが分かります。旧道が曲がりくねっているのは、それが当時の海岸線沿いであったためです。なお、ここでの旧道は昭和の時代に作られたものであり、旧道といってもそれほど古いものではありません。

金沢八景駅北側の瀬戸神社付近にある歩道が、国道16号線の車道と平行になっていないこと、私有地との境界線が道路と平行でないこと、その結果不自然な三角形の空き地が存在していることの背景を調査したものです。これは、現在は歩道となっている部分が、鎌倉幕府が作った街道の跡であり、その後の道路整備の結果、一部が歩道として残されることになったという事情の反映です。

上記の鎌倉幕府が作った街道は、動画の後、大まかには、国道16号線に取り込まれて南下した後、六浦交差点で右折して、横浜市道4号線に入り、鎌倉方面に進みます。ただ、明治時代の地図を見ると、もとは、現在の六浦交差点で右折するのではなく、その手前の六浦交番付近で右前方方向に進んでいたことが分かります。その後も現在の市道4号線と同一ではなく、一部が脇道として残っていることが分かります。
下に、左から、明治時代の地図、現在の地図、現在の地図上に現在の道(緑線)と明治時代の道(赤線)を描いたものを示します。右図の、青丸と黒丸の間にある赤い点線部分は、現在は京浜急行線の路盤となっており存在しません。この部分が付け替えられたのは、大正末期から昭和初期にかけてのようですが、その頃は金沢八景地区は軍事上の理由で地図の製作が禁止されており、正確な経緯は不明です。

また、明治時代の地図をよく見ると、現在の六浦交番付近、上の右端の図でいうと青い丸の箇所で、少し道が折れ曲がっており、滑らかにはつながっていないことが読み取れます。さらに、この青丸の箇所まで、地図上で街道を左から進んできた場合、北方向に曲がらずに、そのまま直進する細い道があることが地図から分かります。この道を、下の地図上の矢印の連続で示しますが、かなりくねくねと曲がっています。これは、古い道の特徴で、かつてはこの道の近くまで海岸線が来ていたため曲がっているものと考えられます。

この道をストリートビューで見ると、下のようになります。狭く見通しの悪い道であることが分かります。

ストリートビューではわかりにくいのですが、実際に歩いてみると、道は平坦ではなく、南側、上のストリートビューでは左側に少し傾いており、現代の道路の整備状況としては不適切ともいえる状態です。
このことから、この狭い道は、鎌倉時代の街道以前からある古い生活道路ではないかという推測ができます。実際、この道沿いには、古い時代の生活の痕跡があったことが知られています。上の地図では、右端の横向き矢印の付近で、近年の開発で失われてしまいましたが、解説板が存在し、ストリートビューでも確認できます。

こういったことから、この狭い道は、

  • 鎌倉以前、例えば平安時代から、地元の海沿いの生活道路として存在していた。(下図左の赤線)
  • 鎌倉時代に、幕府が街道を整備する際、瀬戸神社と現在の六浦交番を結ぶ部分を新設し、六浦交番から西側は、元の生活道路を拡幅して対応した。六浦交番から東側は、元の道幅の生活道路として残された。(下図中央の青線)
  • 大正末から昭和初期のころに、道路が直角に曲がるように改良され、西に向かう道も直線状に改良され、古い道は脇道として残った。

という経緯をたどった開発の痕跡なのだろうと推測できます。

ただ、このことは、平安時代の生活道路を記した文献が存在しないため、本記事の最初に示した動画と異なり、資料による裏付けができません。あくまでも線形を基にした、私の推測にすぎません。

日々忙しいとは思いますが、時には、目的地までまっすぐ歩くのではなく、裏道にそれて遠回りしてみると、日常の世界に面白い発見があるかもしれません。そして、より詳細に調査すれば、道路・トンネル・橋の変遷などから、人類が達成してきた、土木技術や科学技術の進歩を実感することができます。そのような目で、歩きながら周りを見るのも楽しいと思います。