MENU

教員コラム

2024.05.23 - コミュニケーション学科  源氏物語ゆかりの地を訪ねて

NHKで放送されている今年の大河ドラマでは、『源氏物語』の作者である紫式部が主人公です。私は、平安時代の文学に関心がある一部学生に対して、『源氏物語』や『伊勢物語』『和泉式部日記』などの平安文学について学習した後、実際に京都や大阪に行ってもらい、そのゆかりの地を訪ねてきてもらうという活動を行っています。
以下では、『源氏物語』ゆかりの地を学生が一人で訪れて撮影してきた写真や、別の機会に教員自身が撮影した写真を紹介します。

まず、紫式部が『源氏物語』を執筆した地とされる、蘆山寺です。このお寺で『源氏物語』を書いたということではなく、当時この辺りに紫式部が住んでいた邸宅があり、後に安土桃山時代に蘆山寺がここに移転してきたということです。境内には「源氏の庭」というものがあるなど、『源氏物語』に絡めた宣伝が行われています。

ただし、蘆山寺周辺に紫式部が住んでいたと推定されるようになったのは昭和40年頃であり、歴史的にそのように考えられていたわけではありません。推定の根拠は、発掘調査ではなく、『河海抄』という、紫式部の時代から350年以上後の室町時代に書かれた文献の記述であり、『河海抄』内の記述の根拠は不明です。従って、ここが厳密に『源氏物語』が執筆された地であるかどうかは、確定的ではないようです。

 

次は渉成園という庭園です。下の写真のような美しい庭園です。『源氏物語』の主人公である光源氏のモデルの一人とされるのが、源融という人物ですが、その根拠のうちの一つは、『源氏物語』内に光源氏が六条京極付近に大邸宅を構えたという記述があり、源融はその六条京極辺りに六条河原院という大邸宅を構えたことが知られていることです。渉成園は、地元では六条河原院の跡地に作られたと伝承されています。

ただし、六条河原院は、南端が六条大路に接していたとされていますが、渉成園は六条通と七条通の中間よりやや七条通寄りに位置しており、ここを六条というのは違和感があります。実際、渉成園は、江戸時代に徳川家光が東本願寺に寄進した土地であり、直接的には、六条河原院とは関係がありません。発掘調査によると、渉成園と六条河原院は、位置的にほぼ無関係とされています。

 

次は、五条大橋近くにあるエノキの木です。これは、六条河原院内にあったという伝承があるものです。

実際には、ここは江戸時代に鴨川の護岸整備がされて埋め立てられるまで鴨川の河原であったものとみられ、エノキの木は江戸時代に植えられたものではないかと考えられます。発掘調査の結果、ここは六条河原院の内部ではなく、その少し東側に位置しているものとみられています。

 

次は、『源氏物語』内に現れる人物である「夕顔」の墓です。「夕顔」は架空の人物ですので、墓が実在するわけはないのですが、江戸時代に好事家が「造った」ということです。実際には、「夕顔」の墓は一般のお宅内にあり、公開されておらず、見ることができるのは、玄関横にある「夕顔之墳」と書かれている碑のみです。今の時代、ここに住んでいる人やご近所の人がSNSなどに「夕顔」の墓の写真を投稿していてもよさそうですが、そのようなものも一切発見できません。
江戸時代の安永9年(1780年)に刊行された『都名所図会』の第2巻に、この「夕顔」の墓に関する記述があり、下図右側のような絵が描かれています。(下図右側は国立国会図書館デジタルコレクションにある『都名所図解』から引用。これは著作保護期間満了済みであり、自由に利用可能。)

Googleの衛星写真で見ると、この絵の位置とみられる、住宅裏庭北西付近に、それらしきものが見えるような気もしますが、判然とはしません。従って、現在でも、ここに江戸時代の文献に描かれたものと同じ姿で「夕顔」の墓が存在しているかどうかはわかりません。

 

最後は、宇治にある紫式部像です。10円玉にも描かれている宇治の平等院は、源融の別荘がもとになっています。『源氏物語』の最後の十帖は宇治を舞台としており、『宇治十帖』と呼ばれます。ただ、『宇治十帖』は書き方などの面を含め、趣が他と異なるため、紫式部自身が書いたものではないという見解もあるそうです。

 

いかんせん、1000年も昔のことであり、真偽の定かでない話がほとんどになってしまいますが、そういった側面も含めて夢があるとも言えるのではないかと思っています。
世界史において、女性の作家というものは近代になるまでかなり稀な存在です。1000年ほど昔に、紫式部、和泉式部、清少納言、菅原孝標の娘、藤原道綱の母などの女性作家が短期間のうちに同一都市内でそろい踏みした時期は、世界史の中で他に類を見ません。その背景には、摂関政治という、やや特異な権力構造があったことは間違いなく、摂関政治の衰退とともに、平安女流文学も消滅しました。そういった時代背景にも目を向けてもらいたいと思いながら活動しています。