2020.04.09 - コミュニケーション学科 石井 充 3本のレール
関東学院大学の学生は、通学に京浜急行電鉄(以下京急と省略)を利用することが多いです。その車内でふと車端を見ると下のようなプレートが目に入ることがあります。
東急?私は今京急に乗っているのではなかったか。 と一瞬混乱します。どうしてこんなところに東急の文字があるのでしょうか。
この疑問を解くヒントが、大学の最寄り駅の一つである金沢八景駅にあります。下の写真は、金沢八景駅の4番線ホーム、つまり、品川方面行の主として急行電車が発着する場所付近から見たものです。
レールが3本あるのがわかります。ふつうはレールは2本のはずですが、なぜ3本あるのでしょうか。
このレールは道路に最も近い箇所にあるので、容易にたどることができます。たどっていくと、総合車両製作所というところに行きつきます。入り口付近に、写真撮影禁止のようなことが書いてあるので、Googleのストリートビューを示します。
入り口付近に、新幹線0系という初期の新幹線車両の先頭車が置かれています。一定年齢以上の人が新幹線と聞くと、今でもこれを思い出すのではないでしょうか。この先頭車は京急の車内からも見えます。
この総合車両製作所という会社は、京急を含めたさまざまな鉄道会社向けの電車を作っています。しかしながら、京急以外の鉄道会社用の電車を作って、それらを運び出すときに、問題が発生します。
京急は、2本のレールの間隔が1435mmであり、首都圏の多くの鉄道で採用されている1067mmより広くなっています。このために、京急は他社と比較して、高速で安定した走行が可能になっています。しかし、このために、総合車両製作所で製造した京急以外の車両は、京急の線路を走らせて運び出すことができなくなってしまいます。
この問題を解決するために、上の写真のように間にもう一本のレールを入れて、1067mm幅の車両を運ぶときには、内側のレールを使うことになっているのです。内側のレールは、新逗子方面に伸び、途中で京急の線路と別れて、JRの線路につながっていくようになっています。これが、金沢八景駅の4番線ホームには3本のレールがある理由です。
そして、この総合車両製作所という会社ですが、2012年初頭までは、東急車輛製造という名称の会社でした。その名の示す通り、東急系列の会社でした。
この東急車輛製造も、東急の車両だけでなく、京急や新幹線など各社の車両の製造やメンテナンスを行っていました。そのようなわけで、ここで作られた京急の車両に、製造元を表す印として、冒頭の写真のような東急というプレートがついていたわけです。
これで一件落着のようですが、まだ疑問が残ります。東急車輛製造の付近には京急の線路しかありません。なぜここに東急の関連会社があったのでしょうか。東急の線路のそばに会社を作る方が効率的ではないのでしょうか。
東急の社史である「東京急行電鉄50年史」等を見ると、以下のようなことがわかります。
・もともと、現在の東急の前身の会社は東京横浜電鉄(東横電鉄)という名前であった。
・昭和17年、東横電鉄が、京急の前身の会社と小田急を吸収合併。その後も、京王電気軌道などの各社の吸収合併を続ける。
・合併に際して、合併後の会社の名称が東京急行電鉄に決定される。
・昭和21年、東急車輛製造の前身である横浜製作所の創立準備委員会が設置される。
・昭和23年、東急から京王・小田急・京急が分離。
という経緯をたどっています。
つまり、戦時中は、現在の東急の前身である東横電鉄が、積極的に買収を仕掛け、現在の東急+京急+小田急+京王を含む大きな路線網を有する会社であったわけです。東急という名称ができたのもこのときです。考えてみれば、東京急行電鉄という名称は、必ずしも今日の状況を適切に表現していません。現在の東急は、東京都内では、西南部の一部にしか路線を有していません。また、東京ではない神奈川県内にも長い路線を有しています。しかしながら、当時において合併された大路線網を持つ会社をどのように呼ぶかとなった場合、広域的で漠然とした、東京急行電鉄という名称が良かったのでしょう。
ただし、この合併は株の買い占めなどの強引な手段を使って行われた場合もあったようで、社内には不満も少なくなかったようです。背景には、戦時下で産業を効率的に統制したい軍部の意向もあったようです。
戦後になると、労働組合が結成され、東急グループの総帥である五島慶太が公職追放になるなどの流れの中、京急と小田急と京王が東急から分離します。
このような経緯のため、東急車輛製造ができた時には、京急は東急の一部であり、もともとは東急の線路のそばに作られたはずであった東急車輛製造が、その後の京急分離の結果として、孤島のように取り残されることになったというわけです。
ちなみに、東横電鉄が合併後に会社の名称を東京急行電鉄に変えても、子会社は東急と名称を変更せず、東横ナニナニと名乗り続けることも多かったようです。例えば、東横百貨店の商号が東急百貨店に変わったのは、昭和42年のことです。現在でも、渋谷にある東急百貨店は、渋谷店ではなく、東横店と名乗っていますね。
私は、大学において、「メディアの歴史」という講義を担当しています。戦時下において、軍部による情報統制のため、多くの新聞社が合併させられたこと、その影響が、現在の日本において新聞社の数が他の先進国と比べて少ない傾向として残っていること、などを解説しています。
それと同じ背景を持つ事例が鉄道会社にあり、その名残が、今でも車内のプレートなどに存在していると知ると、ちょっとだけ日々の生活が楽しくなりませんでしょうか。大学の学習というものは、単なる机上のものではありません。それらを、身近なところで活用できるという一例を挙げさせていただきました。