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教員コラム

2013.08.08 - 共生デザイン学科  役に立たない機械?

私は大学の教員としての本職の他に「造形作家」という本職を持っています。この「造形作家」という本職は、お金にはなりません。お金にならないのに本職として職業を名乗るのはおかしいと思われるかもしれませんが、そういう生き方もあるのです。研究をしている人はお金になるから研究をしているのでしょうか?もしかしたらそういう人もいるかもしれません。しかし本来はたとえお金にならなくとも何かの役に立つために研究をしているはずです。ですから私も研究と同じようにお金にならなくとも造形作家を本職と名乗ります。つまり、役に立つことは必ずしもお金にはならないのです。それでも、やり続けるのは皆の役に立ちたいと望んでいるからです。無論、私の作品を買いたいと考えてくださる方がいらっしゃればお譲りするかもしれません。但し、値段はその時考えます。つまり最初から値札を付けることはしません。それは売ることを前提にしてはいないからです。作品は私の分身です。私の思いや汗や時間、失敗、成功が沢山含まれています。それを簡単にお金に換算はできないのです。あなたは愛する人への思いをお金に換算できますか?作品に込める気持ちはそれと同じなのです。愛はお金に換算できません。いわば私にとって役にたつ、という思いは愛そのものなのです。こうした活動自体を「職業」として名乗るのは私なりの覚悟です。お金にならなくてもやり続けるという表明でもあります。更にいえば、お金にならないことに意味が生まれます。“あの人はお金にもならないのになぜ造り続けるのだろう”それこそが、私の考える“役”なのです。お金は生活を支える大切な糧です。しかし、お金は心を失わせるものでもあります。心を失ってまで得るお金とは何なのでしょう?そのことを伝えるには私自身がお金にしない覚悟が必要なのです。

そんな私が本職で造っている作品は「役に立たない機械」です。お金にならなくとも役に立ちたい、と言っていたのに「役に立たない機械」を造っているとはどういうことなんだろう?と考えられるかもしれません。そもそも「機械」は役に立つことが前提です。お家の洗濯機や冷蔵庫が使えなかったら困ります。つまり、機械は使えなくては役に立ちませんから「役に立たない機械」という言葉は矛盾していることになります。では、そもそも“役”とはなんだろう、という疑問が生じます。私の作品における役は、洗濯機や冷蔵庫の役とは異なる役を果たす目的で造られます。その“役”について言葉で説明するのはとても難しいのですが、簡単に言えば「“便利さの役”ではない」ということになります。人はこれまで、不便であったものを便利にするために機械を沢山生み出してきました。しかし、その影で多くの“何か”を失ってもきたのです。その“何か”が私の作品を通して感じられたとき、私の役割はほんの少しだけ果たされたことになります。伝える、ということは実はとても難しいものです。同じ言葉をしゃべれるからといって、大切な思いが言葉で伝わるとは限りません。むしろ、言葉にならないような小さな声、または少し考えたくらいではわからないようなことによってこそ、伝わることもあるのです。そのような小さな声が後々、心の底に響くことを信じて私は今日も作品を造り続けます。

http://www1.odn.ne.jp/art_design/

Hand mixer stand
mawasanaide_machine

淡野 哲(共生デザイン学科)