雪国

川端康成の「雪国」という小説を知っている人は多いと思います。「あまりにも有名な書き出しで知られている小説」などという表現で語られることも多いですが、この「あまりにも有名な書き出し」を正確に言えますでしょうか。
正解は、
      国境の長いトンネルを抜けると雪国であった
です。「有名な書き出し」と言われる割には、人によって
      国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった
や、
      トンネルを抜けると雪国だった
など、必ずしも正確に記憶されているわけでもないようです。
特に、「そこは」が入る形で記憶している人は多いようですが、原則として文章には主語が必要ですので、主語のない本来の文章のままでは、日本語の表現上不都合なのでしょう。このあたりは、小説という文学作品であるから許される表現なのでしょう。

さて、この「国境の長いトンネル」というのは、一般に、群馬県と新潟県の境になる谷川岳の下を通る、清水トンネルのこととされています。もちろん新幹線ではなく、在来線の上越線のトンネルです。(この小説が書かれた昭和初期のころには上越線は単線でしたが、現在では複線化され、東京方面から行くと、新清水トンネルという少し長い別のトンネルを通ることになります。)
この書き出しの文章について、「冬季に東京側から清水トンネルを抜けて越後湯沢側に出ると、関東の雪のない世界からは劇的に変わった、一面雪に覆われた景色になる」などと言われることがしばしばあります。下の写真は、清水トンネルを抜けた直後の土樽駅近くの冬季の様子です。

土樽駅付近(Wikipediaの土樽駅の記事内の画像をCC BY-SA 3.0のもとで加工)

しかし、実際に冬季に現地に行ってみると、この小説で表現されている風景とは異なることがわかります。冬季には、清水トンネルのかなり東京寄りの水上温泉あたりから、既に一面雪に覆われています。つまり
国境の長いトンネルに入る前から既に雪国であった
が現実です。現地周辺の積雪量を確認してみると、「雪国」に書かれているような情景が出現するのは、秋と冬の境目、冬と春の境目の、せいぜい一週間から十日間だけのことであることがわかります。実際に小説で想定されている時期は、12月初め頃です。 (小説ですから、現実を表現しているのではなく、世界が変わるという象徴的な意味だ、という説明はできるでしょうけれど。)

また、「雪国」は「美しい小説」と言われることも多いですが、この小説全文を読んだことはありますでしょうか。確かに、書き出しの文章は表面上美しく見えますが、小説の内容は、少なからず不気味なものです。そもそも、主人公の一人である「島村」は、妻子がありながら、働きもせず、ぶらぶらと暮らして、時々雪国の宿にやってきて芸者と・・・、という話なのですから、中学生に読ませたいような内容ではありません。
内容はかなり退廃的・破滅的で、「退廃の美学」というのであれば確かに美しいと言えますが、「美しい小説」と言う人たちは皆がそのようなことを含む複合的な意味で言っているのでしょうか。(ちなみに、「雪国」が書かれてそれほど時間が経たない頃に小林秀雄などが書いている評は、「退廃の美学」を正しく理解しています。本来的に美しくないものを、部分的に美しく見える文章で包んでいる、とでも言えばよいのでしょうか。)

学問というものは、他人が言ったことをそのまま取り入れるというものではありません。「誰かが言っている」、「友人から聞いた」、「SNSで見た」、「先生が言っていた」、「教科書に書いてあった」ではだめなのです。内容を自身で確認し、納得すること、これが、学問の基本中の基本です。
高校までの勉強では、教科書に書いてあることや、先生の言っていることをそのまま知識として取り込むことも多いと思います。大学での学問は、それとは根本的に異なり、全て自身で確認し納得しなければならないことを、知っていてください。

徒然草

「つれづれなるままに日暮らし硯に向かひて」ではじまる徒然草は有名ですが、その作者である吉田兼好が、横浜市内に住んでいたことをご存じでしょうか。
関東学院大学八景キャンパスに、最寄り駅の金沢八景駅から歩いていく場合、国道16号線で南方向に歩きますが、その途中から分岐する横浜市道環状4号線を少し入ると、上行寺というお寺があります。金沢八景駅からは歩いて10分もかからない近距離にあります。ここに、鎌倉時代の終わりごろに吉田兼好が数年間住んでいたそうです。
下に、上行事の境内と、入り口にある解説板の写真を示しますが、解説板には、「徒然草の著者吉田兼好閑居の旧跡」と、ここに吉田兼好がかつて住んでおり、金沢八景を離れて京都に帰った後に徒然草を執筆したことが説明されています。

徒然草と言えば仁和寺ですが、金沢八景には、仁和寺ゆかりのお寺があります。
金沢八景駅から、先ほどの上行事とは逆方向に10分弱進むと、龍華寺というお寺があります。龍華寺は、仁和寺の系列のお寺です。鎌倉時代の中ごろまで金沢八景周辺の土地の多くは仁和寺の領地であったため、仁和寺の系列のお寺があるのだそうです。
境内には、仁和寺から移植された御室桜という遅咲きの桜があります。ソメイヨシノよりも2週間ほど遅れて咲きます。4月には、御室流華道展という、いけばなの展示会が開かれます。
下に龍華寺の境内と、御室桜と、御室流華道展を見学した時に撮影した写真を示します。

金沢八景周辺で、桜の名所と言えば、称名寺です。先ほどの龍華寺から15分ほど北方向に歩いたところにあります。下に示すように、桜だけでなく、浄土式の庭園も美しいお寺です。
この称名寺は、鎌倉幕府において権力を握っていた北条氏の一派である金沢流北条氏が建立したお寺で、この金沢流北条氏の当主であった北条貞顕という人物は、鎌倉幕府の京都における出先機関である六波羅探題のトップを長く務めた人です。その過程で、京都の公家衆などの知識階級とのつながりが生じ、その関係で吉田兼好も金沢八景の地に住むことになったものと考えられています。

このように、横浜は、様々な歴史的な価値のある場所があります。大学への行き帰りに、ちょっと寄り道をして、こういったものを見つけてみるのも面白いのではないでしょうか。

源氏物語ゆかりの地を訪ねて

NHKで放送されている今年の大河ドラマでは、『源氏物語』の作者である紫式部が主人公です。私は、平安時代の文学に関心がある一部学生に対して、『源氏物語』や『伊勢物語』『和泉式部日記』などの平安文学について学習した後、実際に京都や大阪に行ってもらい、そのゆかりの地を訪ねてきてもらうという活動を行っています。
以下では、『源氏物語』ゆかりの地を学生が一人で訪れて撮影してきた写真や、別の機会に教員自身が撮影した写真を紹介します。

まず、紫式部が『源氏物語』を執筆した地とされる、蘆山寺です。このお寺で『源氏物語』を書いたということではなく、当時この辺りに紫式部が住んでいた邸宅があり、後に安土桃山時代に蘆山寺がここに移転してきたということです。境内には「源氏の庭」というものがあるなど、『源氏物語』に絡めた宣伝が行われています。

ただし、蘆山寺周辺に紫式部が住んでいたと推定されるようになったのは昭和40年頃であり、歴史的にそのように考えられていたわけではありません。推定の根拠は、発掘調査ではなく、『河海抄』という、紫式部の時代から350年以上後の室町時代に書かれた文献の記述であり、『河海抄』内の記述の根拠は不明です。従って、ここが厳密に『源氏物語』が執筆された地であるかどうかは、確定的ではないようです。

 

次は渉成園という庭園です。下の写真のような美しい庭園です。『源氏物語』の主人公である光源氏のモデルの一人とされるのが、源融という人物ですが、その根拠のうちの一つは、『源氏物語』内に光源氏が六条京極付近に大邸宅を構えたという記述があり、源融はその六条京極辺りに六条河原院という大邸宅を構えたことが知られていることです。渉成園は、地元では六条河原院の跡地に作られたと伝承されています。

ただし、六条河原院は、南端が六条大路に接していたとされていますが、渉成園は六条通と七条通の中間よりやや七条通寄りに位置しており、ここを六条というのは違和感があります。実際、渉成園は、江戸時代に徳川家光が東本願寺に寄進した土地であり、直接的には、六条河原院とは関係がありません。発掘調査によると、渉成園と六条河原院は、位置的にほぼ無関係とされています。

 

次は、五条大橋近くにあるエノキの木です。これは、六条河原院内にあったという伝承があるものです。

実際には、ここは江戸時代に鴨川の護岸整備がされて埋め立てられるまで鴨川の河原であったものとみられ、エノキの木は江戸時代に植えられたものではないかと考えられます。発掘調査の結果、ここは六条河原院の内部ではなく、その少し東側に位置しているものとみられています。

 

次は、『源氏物語』内に現れる人物である「夕顔」の墓です。「夕顔」は架空の人物ですので、墓が実在するわけはないのですが、江戸時代に好事家が「造った」ということです。実際には、「夕顔」の墓は一般のお宅内にあり、公開されておらず、見ることができるのは、玄関横にある「夕顔之墳」と書かれている碑のみです。今の時代、ここに住んでいる人やご近所の人がSNSなどに「夕顔」の墓の写真を投稿していてもよさそうですが、そのようなものも一切発見できません。
江戸時代の安永9年(1780年)に刊行された『都名所図会』の第2巻に、この「夕顔」の墓に関する記述があり、下図右側のような絵が描かれています。(下図右側は国立国会図書館デジタルコレクションにある『都名所図解』から引用。これは著作保護期間満了済みであり、自由に利用可能。)

Googleの衛星写真で見ると、この絵の位置とみられる、住宅裏庭北西付近に、それらしきものが見えるような気もしますが、判然とはしません。従って、現在でも、ここに江戸時代の文献に描かれたものと同じ姿で「夕顔」の墓が存在しているかどうかはわかりません。

 

最後は、宇治にある紫式部像です。10円玉にも描かれている宇治の平等院は、源融の別荘がもとになっています。『源氏物語』の最後の十帖は宇治を舞台としており、『宇治十帖』と呼ばれます。ただ、『宇治十帖』は書き方などの面を含め、趣が他と異なるため、紫式部自身が書いたものではないという見解もあるそうです。

 

いかんせん、1000年も昔のことであり、真偽の定かでない話がほとんどになってしまいますが、そういった側面も含めて夢があるとも言えるのではないかと思っています。
世界史において、女性の作家というものは近代になるまでかなり稀な存在です。1000年ほど昔に、紫式部、和泉式部、清少納言、菅原孝標の娘、藤原道綱の母などの女性作家が短期間のうちに同一都市内でそろい踏みした時期は、世界史の中で他に類を見ません。その背景には、摂関政治という、やや特異な権力構造があったことは間違いなく、摂関政治の衰退とともに、平安女流文学も消滅しました。そういった時代背景にも目を向けてもらいたいと思いながら活動しています。

沖縄返還50周年と逗子市

今年は、沖縄が米軍統治下から離れ、本土に復帰してから50周年になります。これに伴い、多くの式典が行われました。私の知人で、当時沖縄に住んでいた人は、通貨が変わったり、自動車が左側通行に変わったりしたことを覚えていると言っています。(ただし、自動車が左側通行に切り替わったのは、本土復帰の数年後です。)
ただ、その後も、沖縄には米軍の基地が多く置かれ、平成の末ごろから辺野古に新しい基地を作る過程で、地元の十分な合意が得られているとはいいがたい状況のまま工事が進められているなど、様々な形で、現在に影響を与えています。

沖縄問題というと、どこか遠い土地の話と考える人もいるかもしれませんが、実は、関東学院大学のある金沢八景の近くにも、現在の辺野古の問題と類似した経緯を経た場所があります。
金沢八景駅の、二つ隣に神武寺という駅があります。ここは横浜ではなく、逗子市になりますが、この駅構内には、普通の改札口とは別に、下の写真のような出入り口があります。

これは、駅に隣接した土地にある、米軍関係者の住宅に出入りするための専用の出入り口です。

かつてここは、米軍の弾薬庫がありましたが、実質的に使われない時期が長く続き、草木が茂って、野鳥の宝庫となっていました。そこに、昭和の時代の末ごろから平成の時代の初期にかけて、米軍関係者の住宅建設を行う計画が持ち上がり、地元の意見を全く聞くことなく、日本政府により、工事が進められようとしました。これに地元が反発し、天文学者出身という少し変わった経歴を持つ反対派の人物が逗子市長に当選し、日本政府と渡り合うなど、様々な動きがあり、新聞をはじめとしたメディアでも大きく取り上げられ注目されました。

ただ、現在の沖縄の状況と同様に、当時の逗子市民も一枚岩ではなく、米軍住宅建設への反対派と賛成派に真っ二つに分かれ、争いが続きました。基本的に市長選では、反対派の市長が当選を重ねましたが、ある種の持久戦に持ち込まれる中で住宅建設が進められるなど、既成事実が積み上げられていきました。最終的に、既成事実の前に、反対活動を続けることが実質的な意味を失っていき、現在に至っています。

現在、駅の改札口と反対側には、下の写真のような看板等があり、物々しい雰囲気を醸し出していますが、これは、米軍住宅エリアに自動車で出入りするときに使われるゲートです。

ただ、米軍住宅に使われたエリア以外は、一部には今でも森林が残り、昔の雰囲気をしのばせています。

このような沖縄と逗子市の動きは、平成末から令和、昭和末から平成初期、という約30年の時間差はあれど、その経緯はよく似ています。

さらに約30年さかのぼれば、類似した別の事例もあります。私のゼミナールでは、「人間と自然の共生について考える」というテーマで、伊豆諸島に出かけています。下のストリートビューは、新島にある公園ですが、公園が自衛隊によって整備されたことを示しています。

なぜ自衛隊が公園を整備しているのかというと、新島の南部にある、ミサイル実験場が関係しています。

昭和30年代に、新島にミサイル実験場を建設する計画が持ち上がり、その賛否を巡って、住民が真っ二つに分かれましたが、結局実験場は建設されました。実質的に、その見返りに近い形で、自衛隊によって、公園や道路などのインフラ整備がなされたようです。新島は伊豆諸島の中では、他島に比べてインフラ整備が早く進み、観光客の呼び込みにいち早く成功した島ですが、その背景には、こういった事情も一部関係していたようです。

これらの、戦後それほど経たない時期、昭和末から平成初期、平成末から令和、と時代背景は大きく異なるものの、同じような経緯をたどった事例を見ると、人の進歩のなさを見せつけられ、ある種の虚脱感も感じますが、人々の合意を得て進めるのが理想的であることは確かでも、上記のいずれも事例でも地元の完全な合意を得ることは困難であったとみられ、現実的にどのような対応が適切であるのかは、容易に判断できるものではありません。

一見すると自身とは関わりのなさそうなことでも、人の営みである以上、類似した事例は意外と身近なところに見つかります。そういったものを契機として、色々なことを体験し考える機会を学生たちに与えられるように、日々工夫して講義やゼミナールを運営しています。

関東学院大学の最寄り駅である、金沢八景駅の接近チャイムには、「道」という曲の一部が使われています。Youtubeなどで検索すると聞くことができます。この曲を歌う人の出身高校が近くにあるという縁で、使用されているのだそうです。

さて、金沢八景駅から関東学院大学に至る平潟湾沿いの道やその近傍には、色々な意味で奇妙な道があります。例えば、
・駅の近くのセブン・イレブンの横にある、存在理由のわからない道
・六浦川近くにある、不自然に広い歩道とS字型カーブ
・駅近くの神社付近にある、車道に対して斜めになっている歩道と、不自然な三角形の空き地
などがあります。これらがなぜ存在しているのかを学生と調査し、動画としてまとめる活動をしています。下に解説動画を示しますが、かつては合理的な存在であったものが、その後の開発の結果不合理な存在として残っていることが分かり、都市の発展を身近なところで感じることができます。

セブン・イレブンの横にある道が、存在理由が不明であるにもかかわらず、不自然に道幅が広いこと、その近くにある不自然な形のビルがあることなどが、かつての水路の跡であることを示しています。(動画内の絵葉書は、所有者である横浜都市発展記念館の許諾を得て使用しています。)

平潟湾沿いの歩道の道幅が一定でないこと、S字型の不自然な交差点があることの理由を示しています。もともとは、S字型カーブの先の道と、歩道と、その先の道である、セブン・イレブン横の道と丁字路をなす裏道とが、一本の連続した道路であり、その後現在の車道が新設された結果、旧道の一部が歩道として活用されていることが分かります。旧道が曲がりくねっているのは、それが当時の海岸線沿いであったためです。なお、ここでの旧道は昭和の時代に作られたものであり、旧道といってもそれほど古いものではありません。

金沢八景駅北側の瀬戸神社付近にある歩道が、国道16号線の車道と平行になっていないこと、私有地との境界線が道路と平行でないこと、その結果不自然な三角形の空き地が存在していることの背景を調査したものです。これは、現在は歩道となっている部分が、鎌倉幕府が作った街道の跡であり、その後の道路整備の結果、一部が歩道として残されることになったという事情の反映です。

上記の鎌倉幕府が作った街道は、動画の後、大まかには、国道16号線に取り込まれて南下した後、六浦交差点で右折して、横浜市道4号線に入り、鎌倉方面に進みます。ただ、明治時代の地図を見ると、もとは、現在の六浦交差点で右折するのではなく、その手前の六浦交番付近で右前方方向に進んでいたことが分かります。その後も現在の市道4号線と同一ではなく、一部が脇道として残っていることが分かります。
下に、左から、明治時代の地図、現在の地図、現在の地図上に現在の道(緑線)と明治時代の道(赤線)を描いたものを示します。右図の、青丸と黒丸の間にある赤い点線部分は、現在は京浜急行線の路盤となっており存在しません。この部分が付け替えられたのは、大正末期から昭和初期にかけてのようですが、その頃は金沢八景地区は軍事上の理由で地図の製作が禁止されており、正確な経緯は不明です。

また、明治時代の地図をよく見ると、現在の六浦交番付近、上の右端の図でいうと青い丸の箇所で、少し道が折れ曲がっており、滑らかにはつながっていないことが読み取れます。さらに、この青丸の箇所まで、地図上で街道を左から進んできた場合、北方向に曲がらずに、そのまま直進する細い道があることが地図から分かります。この道を、下の地図上の矢印の連続で示しますが、かなりくねくねと曲がっています。これは、古い道の特徴で、かつてはこの道の近くまで海岸線が来ていたため曲がっているものと考えられます。

この道をストリートビューで見ると、下のようになります。狭く見通しの悪い道であることが分かります。

ストリートビューではわかりにくいのですが、実際に歩いてみると、道は平坦ではなく、南側、上のストリートビューでは左側に少し傾いており、現代の道路の整備状況としては不適切ともいえる状態です。
このことから、この狭い道は、鎌倉時代の街道以前からある古い生活道路ではないかという推測ができます。実際、この道沿いには、古い時代の生活の痕跡があったことが知られています。上の地図では、右端の横向き矢印の付近で、近年の開発で失われてしまいましたが、解説板が存在し、ストリートビューでも確認できます。

こういったことから、この狭い道は、

  • 鎌倉以前、例えば平安時代から、地元の海沿いの生活道路として存在していた。(下図左の赤線)
  • 鎌倉時代に、幕府が街道を整備する際、瀬戸神社と現在の六浦交番を結ぶ部分を新設し、六浦交番から西側は、元の生活道路を拡幅して対応した。六浦交番から東側は、元の道幅の生活道路として残された。(下図中央の青線)
  • 大正末から昭和初期のころに、道路が直角に曲がるように改良され、西に向かう道も直線状に改良され、古い道は脇道として残った。

という経緯をたどった開発の痕跡なのだろうと推測できます。

ただ、このことは、平安時代の生活道路を記した文献が存在しないため、本記事の最初に示した動画と異なり、資料による裏付けができません。あくまでも線形を基にした、私の推測にすぎません。

日々忙しいとは思いますが、時には、目的地までまっすぐ歩くのではなく、裏道にそれて遠回りしてみると、日常の世界に面白い発見があるかもしれません。そして、より詳細に調査すれば、道路・トンネル・橋の変遷などから、人類が達成してきた、土木技術や科学技術の進歩を実感することができます。そのような目で、歩きながら周りを見るのも楽しいと思います。

ソーシャルディスタンス

ソーシャルディスタンスという言葉が使われるようになってから、半年以上がたちました。関東学院大学構内にも、ソーシャルディスタンスの確保を呼び掛ける看板が多数あります。
しかし、この「ソーシャルディスタンス」という言葉には違和感を抱きます。「社会的距離」という言葉は、言葉の意味通りに解釈すると、ある人と別の人との仲が良いあるいは疎遠であるといった、社会的関係性を表す言葉ではないでしょうか。あるいはいわゆるパーソナルスペースといった、知らない人がある程度の距離を保とうとする心理学的効果を表現する言葉ではないでしょうか。「2m以上の距離をあける」というのは、社会的な関係性とは無関係ですので、「物理的距離・フィジカルディスタンス」ではないのでしょうか。

そう思って調べてみると、英語では、”Social Distancing”というのが正しいようです。「社会における距離の取り方」ということで、こちらであればそれほど不自然に感じません。

さて、ソーシャルディスタンスの本来の意味であるパーソナルスペースの例としてよく取り上げられるものに、「鴨川等間隔の法則」というものがあります。これは、京都の鴨川の川べりで、

人がきれいに等間隔で並んで座っている

というものです。

下の写真はWikipediaから転載した鴨川の河原の写真です。でも、これを見て、「等間隔である」と思うでしょうか。赤と青の矢印を比較すると、距離に2倍近く差があります。私が実際に鴨川の河原を見て、「等間隔だ」と感じたことは一度もなく、間隔の短いところと長いところには、ほとんどの場合に2倍以上の差がありました。

図1. 鴨川の川べり  Wikipediaの「鴨川」記事内の写真よりCC-BY-SA 3.0のもとで引用・加筆

この法則の派生版として、
人が近くに座って、等間隔の法則が崩れそうになると、座っている人々が少しずつずれて行って、等間隔になる
というものもあります。しかし、これも、実際に人がずれている場面を見たことはなく、むしろ普通に考えれば、居心地が悪いと感じれば、少しずつ動くのではなく、立ち上がってどこかに行ってしまうのではないでしょうか。そういうわけで、「鴨川等間隔の法則」は都市伝説なのであろう、と長く思っていました。

今回、ソーシャルディスタンスが話題になりましたので、「鴨川等間隔の法則」を思い出し、だれかきちんと調べた人はいないものか、と思い文献調査をしてみると、文献1文献2が見つかりました。文献1では、(Ⅳ)にて、等間隔にはなっていないことが示されており、(Ⅲ)では、サクラを用意し鴨川の河原に座っている人のそばに座らせてみても、人は移動せず、居心地が悪くなって立ち去るということも立証できず、そのまま座り続けていることが多いことが示されています。文献2では、実際に人の間の距離を計測して集計していますが、等間隔なのであれば、文献中に示されている図において右上45度方向の赤線上にデータ点が並ぶはずです。しかし、実際の計測データはばらつきが大きく、等間隔ではないことを示しています。

では、「鴨川等間隔の法則」はまったくの間違いなのか、というと、もう少し考える必要がありそうです。そもそも、人が出入りする状況では、知らない人同士が最大限に距離をあけようとしても等間隔性を維持できないことは容易に理解できます。

右の図2で、最初の状態(A)では5人が等間隔に座っている状態にします。その後、左から2番目の人が抜けると(B)の状態になり、最短と最長の違いは2倍になります。さらに1人抜けて(C)の状態になると、最短と最長の違いは3倍になります。1人が新たに加わると、最大限の距離をあけようとすれば、(D)の状態となり、最短と最長の違いは1.5倍になります。さらに1人が新たに加わると、最大限の距離をあけようとしても(E)の状態になり、最短と最長の違いは2倍になります。

このように、人の出入りがある状況では、最大限に距離を確保しようとしても、つまり「等間隔の法則」を実現しようと最大限の努力をしても、間隔には2倍以上の開きが出てしまうことがほとんどになってしまうのではないか、と予想できます。

こういったことをより正確に知るには、コンピュータを用いた数値実験を用います。詳細は省略しますが、
・10人の人が等間隔に座っている状態から始める
・両端の人は固定する
・両端以外の8人の人は、一定確率で出たり入ったりする
・入る人は、最も間隔があいている箇所の中央に座る
・最短間隔と最長間隔の比を計算する
という過程を100万回繰り返し、最長間隔/最短間隔 の分布を調べました。

その結果を図3に示します。整数倍になる場合にピークが出る傾向にありますが、最長距離/最短距離が2以上になる場合がほとんどであることがわかります。等間隔であることの基準として、最短距離と最長距離の比が1.2倍以内であることを課すと、その確率は0.3%となります。最短距離と最長距離の比が1.5倍以内の確率であれば2.9%、2倍以上になる確率は78.1%となりました。おおむね実感に合致している結果です。

図3. 数値実験結果  横軸:最長距離/最短距離,縦軸:度数

 

つまり、
等間隔であろうと努力しても、等間隔になる確率は0.3%でしかなく、2倍以上の開きが出る確率が78%である
ということになり、見た目にはほとんど等間隔にはなりえないことがわかります。

以上の分析から、「根源的な意味では、等間隔の法則の背後に潜む原理は間違っていないが、現象としては等間隔には見えない」と言えます。

 

この事例を通じて私が言いたいことが2点あります。

第一点は、
伝聞情報を検証せずに安易に受け入れてはいけない
ということです。上の例の「等間隔である」という伝聞情報は、きちんと検証して、内容を確認する必要がありました。コミュニケーション学科の学生は多くはコミュニケーション上手であり、学生間で情報交換を多く行っています。ただ、友人から聞いたという情報を確認せずに鵜呑みにしている事例も見かけます。大学生になったら、情報を自身が確認するという姿勢が必要です。

第二点は、
データを集めて、データが示す事象を表面的に理解するだけでは十分ではない
ということです。上の例では、一見すると等間隔に見えないデータですが、背後にあるルールとしては、人々は等間隔にしようとしていることがわかります。学生が提出するレポート類を読むと、頑張ってデータを集めているのは大変すばらしいのですが、それで満足してそのまま結論としている事例をしばしば見かけます。しかしながら、データはあくまでもデータにすぎません。データを解析し、背後にある原理を踏まえて内容を解釈できて初めてデータは生きたものとなります。

大学生になったら、このような視点を忘れずに、勉学に励んでいただきたいと思います。

3本のレール

関東学院大学の学生は、通学に京浜急行電鉄(以下京急と省略)を利用することが多いです。その車内でふと車端を見ると下のようなプレートが目に入ることがあります。

東急?私は今京急に乗っているのではなかったか。 と一瞬混乱します。どうしてこんなところに東急の文字があるのでしょうか。

この疑問を解くヒントが、大学の最寄り駅の一つである金沢八景駅にあります。下の写真は、金沢八景駅の4番線ホーム、つまり、品川方面行の主として急行電車が発着する場所付近から見たものです。

 


レールが3本あるのがわかります。ふつうはレールは2本のはずですが、なぜ3本あるのでしょうか。

このレールは道路に最も近い箇所にあるので、容易にたどることができます。たどっていくと、総合車両製作所というところに行きつきます。入り口付近に、写真撮影禁止のようなことが書いてあるので、Googleのストリートビューを示します。

 


 

入り口付近に、新幹線0系という初期の新幹線車両の先頭車が置かれています。一定年齢以上の人が新幹線と聞くと、今でもこれを思い出すのではないでしょうか。この先頭車は京急の車内からも見えます。

この総合車両製作所という会社は、京急を含めたさまざまな鉄道会社向けの電車を作っています。しかしながら、京急以外の鉄道会社用の電車を作って、それらを運び出すときに、問題が発生します。
京急は、2本のレールの間隔が1435mmであり、首都圏の多くの鉄道で採用されている1067mmより広くなっています。このために、京急は他社と比較して、高速で安定した走行が可能になっています。しかし、このために、総合車両製作所で製造した京急以外の車両は、京急の線路を走らせて運び出すことができなくなってしまいます。
この問題を解決するために、上の写真のように間にもう一本のレールを入れて、1067mm幅の車両を運ぶときには、内側のレールを使うことになっているのです。内側のレールは、新逗子方面に伸び、途中で京急の線路と別れて、JRの線路につながっていくようになっています。これが、金沢八景駅の4番線ホームには3本のレールがある理由です。

そして、この総合車両製作所という会社ですが、2012年初頭までは、東急車輛製造という名称の会社でした。その名の示す通り、東急系列の会社でした。
この東急車輛製造も、東急の車両だけでなく、京急や新幹線など各社の車両の製造やメンテナンスを行っていました。そのようなわけで、ここで作られた京急の車両に、製造元を表す印として、冒頭の写真のような東急というプレートがついていたわけです。

これで一件落着のようですが、まだ疑問が残ります。東急車輛製造の付近には京急の線路しかありません。なぜここに東急の関連会社があったのでしょうか。東急の線路のそばに会社を作る方が効率的ではないのでしょうか。

東急の社史である「東京急行電鉄50年史」等を見ると、以下のようなことがわかります。
・もともと、現在の東急の前身の会社は東京横浜電鉄(東横電鉄)という名前であった。
・昭和17年、東横電鉄が、京急の前身の会社と小田急を吸収合併。その後も、京王電気軌道などの各社の吸収合併を続ける。
・合併に際して、合併後の会社の名称が東京急行電鉄に決定される。
・昭和21年、東急車輛製造の前身である横浜製作所の創立準備委員会が設置される。
・昭和23年、東急から京王・小田急・京急が分離。
という経緯をたどっています。

つまり、戦時中は、現在の東急の前身である東横電鉄が、積極的に買収を仕掛け、現在の東急+京急+小田急+京王を含む大きな路線網を有する会社であったわけです。東急という名称ができたのもこのときです。考えてみれば、東京急行電鉄という名称は、必ずしも今日の状況を適切に表現していません。現在の東急は、東京都内では、西南部の一部にしか路線を有していません。また、東京ではない神奈川県内にも長い路線を有しています。しかしながら、当時において合併された大路線網を持つ会社をどのように呼ぶかとなった場合、広域的で漠然とした、東京急行電鉄という名称が良かったのでしょう。
ただし、この合併は株の買い占めなどの強引な手段を使って行われた場合もあったようで、社内には不満も少なくなかったようです。背景には、戦時下で産業を効率的に統制したい軍部の意向もあったようです。
戦後になると、労働組合が結成され、東急グループの総帥である五島慶太が公職追放になるなどの流れの中、京急と小田急と京王が東急から分離します。

このような経緯のため、東急車輛製造ができた時には、京急は東急の一部であり、もともとは東急の線路のそばに作られたはずであった東急車輛製造が、その後の京急分離の結果として、孤島のように取り残されることになったというわけです。

ちなみに、東横電鉄が合併後に会社の名称を東京急行電鉄に変えても、子会社は東急と名称を変更せず、東横ナニナニと名乗り続けることも多かったようです。例えば、東横百貨店の商号が東急百貨店に変わったのは、昭和42年のことです。現在でも、渋谷にある東急百貨店は、渋谷店ではなく、東横店と名乗っていますね。

私は、大学において、「メディアの歴史」という講義を担当しています。戦時下において、軍部による情報統制のため、多くの新聞社が合併させられたこと、その影響が、現在の日本において新聞社の数が他の先進国と比べて少ない傾向として残っていること、などを解説しています。
それと同じ背景を持つ事例が鉄道会社にあり、その名残が、今でも車内のプレートなどに存在していると知ると、ちょっとだけ日々の生活が楽しくなりませんでしょうか。大学の学習というものは、単なる机上のものではありません。それらを、身近なところで活用できるという一例を挙げさせていただきました。

物事には理由がある

数学で

と書くのは中学の初年次に学習すると思います。しかしこの書き方は、何かおかしくないでしょうか。x×3をx3と書くならわかりますが、どうしてあえて順番を変えて3xと書かないといけないのでしょうか。中学では、理由は教わらないと思いますが、実はちゃんとした理由があります。

まず、3xという書き方を最初に考えだしたのは、デカルトという人物です。「われ思う。ゆえにわれあり。」という言葉で有名です。高校までの学習では、哲学者として社会科で名前が出る人物です。デカルトはフランス人です。従って、彼が考え出した数学の表式には、フランス語が反映しています。ですが、フランス語はなじみがない人が多いと思うので、以下では簡単のために英語で説明します。

英語では、かけ算記号の×は”times”と言います。しかし、”times”には、本来は「かける」という意味はなく、「~回」という意味しかありません。3xは”three times x”と言いますが、これは「3回xを足し算した」というのが本来の意味です。”This is three times as large as that”という文は、「これはあれの3倍の大きさである」という意味ですが、これも本来は、”as…as”は、「~と同じ」という意味ですので、「これはあれと同じ大きさを3回繰り返したものである」というのが本来の意味で、日本語に訳すと「3倍の大きさ」という意味になるのです。この”This is three times as large as that”を数式で表現すると、
This = 3×that
となります。”three times as large as that”という英文通りに書くと、乗数である3はthatの前に来ることになります。

このように、日本語では、x+x+xを「xを3回足した」と言うので、x×3になりますが、英語では「3回xを足した」と言うので、x+x+xは3×xと書きます。英語では、日本語と掛け算の言い方の順序が逆になるので、数式で書く時の順序も逆になるのです。たとえば、5×3は、日本語では5+5+5を意味しますが、英語では3+3+3+3+3を意味することになります。

英語ではx+x+xはもともと3×xであるわけですから。これを3xと書くのは当然です。上に書きましたように、本来の数式記法はフランス語に基づいており、英語の”times”に相当するものは、フランス語の”fois”ですが、かけ算の言い方が日本語と逆であるという点では英語と同じです。その言い方をそのまま表したものが今の数式での記法になっています。

このように、物事にはちゃんとした理由があります。中学ではそういったことは教わらないでしょうが、英語の知識が十分でない段階でそれを教えるのは無理がありますし、単純にそういうものだと暗記させた方が効率的ではあります。しかしながら、大学生になったら、多くのことに疑問を抱き、安易に納得せずに、自分で考える姿勢が大切になってきます。

x+xがなぜ2xと書かれるのかという説明に際して、数学、英語、社会科が相互に関連して出てきました。高校までの学習においては、学習内容が便宜上複数の科目に分割され、その相互関係が見えることはあまりありませんが、大学では、複数の講義で学習する内容が相互に関係してくることが一般的です。

多くの内容を幅広く学習し、それらを相互に関連付けて、自分でいろいろ考えたり調べたりするのはとても楽しいものです。幸い現在では、多くのことがネットで調べられますので、上記の数式に関する疑問なども検索して簡単に答えを見つけ出せますが、それらの情報は不完全であることが少なくありません。図書館等を活用して、ネット上では不完全である部分をさらに深く調べることも重要です。

身近な気づき

コミュニケーション学科はE2号館という建物に各種設備があるのですが、この建物は窓から東西方向が見えるようになっています。西方向を見ると、写真のように近くの街や山並みが見えます。
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山並みの向こうに富士山が写っていますが、わかるでしょうか。富士山のあたりを拡大してみます。image003

この富士山と手前の山並みが重なる右端あたりに見える稜線に、天然の地形としては不自然な切れ込みが見えます。これはいったい何でしょうか。

実は、これは鎌倉時代につくられた道に伴う土木工事の跡で、朝比奈切通しと呼ばれるものです。こちらに現地の写真があります。

これとは全く別件のように見えることですが、上記とつながっているものが最寄りの駅前にあります。
関東学院大学に通う学生は、京浜急行電鉄の金沢八景駅を利用することが多いです。金沢八景の駅を出ると、正面に国道16号線が通っていますが、歩行者は直接国道に出ずに右方向に行く道路を使うように推奨されています。

国土地理院の地図から引用すると、以下の図の青線になります。Googleストリートビューでみると、こういう感じです。ですが、この道路は歩行者用道路としては少し変です。

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まず、国道にアクセスする歩行者用道路にしては、不自然に曲がっています。また、歩行者専用道路というわけではなく、自動車も入れ、道幅もそこそこあります。

実は、この道は、鎌倉時代からある六浦道と呼ばれる街道の跡です。現在は国道16号線へのアクセス道のように見えていますが、もともとはこちらが本道であったわけです。上の地図では、街道を北に進むと神社に続いているのがわかります。実際には、現在はこの辺りは再開発されており、道路が一部寸断されて地図とは異なっていますが、もともとは神社へとつながっていました。

これは、瀬戸神社という神社です。瀬の戸、つまり海への入り口というわけです。鎌倉時代には、ここから道が出ていて、山越えをして鎌倉に物資を運ぶために使われていました。

関東学院大学のあるあたりは、まっすぐに西に行くと鎌倉になるという便利な立地条件下にあり、その関係で、鎌倉時代には鎌倉への外港として使われていました。港から鎌倉へと物資を運ぶ道が六浦道だったのです。この街道は、その後、山方向に進みますが、山越えをするところを一部切り崩して通りやすくしたものが、上述の朝比奈切通しです。現在の切通しは江戸時代に掘り下げられており、鎌倉時代にはもっと浅かったようですが、場所自体は変わっていません。

そういうわけで、関東学院大学の学生は、鎌倉時代から多くの人が通ってきた道を毎日踏みしめて通学しているわけです。ちょっとぜいたくな気分になりませんか。

駅前の道や、窓から見える何気ない景色にも、様々なことに気がつき、そこから歴史や様々なことを学ぶことができます。ただ、そのためには、多様な知識が必要となります。

コミュニケーション学科では、多様な講義が用意されており、様々な知識を幅広く身につけることができます。そうして得た知識を活用して身の回りを見渡し、新たな発見をするのも楽しいのではないでしょうか。

石井 充(コミュニケーション学科)

室の木キャンパス

人間共生学部は、関東学院大学金沢八景キャンパスの東端にあり、室の木キャンパスとも呼ばれる場所にあります。写真は、室の木キャンパス内の建物の窓から見える風景です。明るく美しい湾内には船が多数浮かび、右端には八景島シーパラダイスが見えます。
(写真をクリックすると拡大されます。)
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室の木キャンパスは、経済学部や理工学部、建築・環境学部とは通りを一本隔てた場所で、独自の校門などがあります。

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この室の木キャンパス校門のすぐ横には、関東学院設立80周年に際して作られた碑がたっています。

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この碑は、1966年に作られたものらしく、既に50年以上の年月を経ているので、一部字が読めなくなっておりますが、おおむね以下の内容が書かれています。

•この地には大寧寺という寺院があった
•大寧寺は源頼朝の弟である源範頼の菩提寺である
•源範頼は頼朝に謀反の嫌疑をかけられ伊豆の修善寺に幽閉された
•源範頼は梶原の景時に攻められ、火を放って自害した
•その後灰の中から、源範頼の首が見つけ出され、頼朝の検分を受けた
•首はその後大寧寺に埋葬された

源範頼の墓の真偽はともかく、この周辺に大寧寺というお寺があったことは確かです。国土地理院のWebサイトで、古い地形図が読めますが、1921年の地形図を見ると、少々字が読みにくいですが、確かに、大寧寺と書かれています。図中の赤線で示した箇所がそれですが、この字が書かれている場所は、室の木キャンパスの中ではなく、その裏手の、現在はアパートが建っているあたりになります。
img5(提供 国土地理院)
寺の境内がどの範囲であったかまでは示されていませんが、関東学院大学の敷地も含まれていた可能性はあります。大寧寺自体は、後の時代に、現在の金沢文庫駅の北のあたりに移転し、現在もそこにあります。

また、最初の写真からもある程度推測できるかもしれませんが、大学周辺は湾が入り組んでおり、鎌倉時代には、鎌倉の外港として栄えていたそうです。 今の交通状況からすると、金沢八景と聞いても、鎌倉?、と思うかもしれませんが、実は鎌倉は結構近いのです。コミュニケーション学科のある建物の廊下から外を見ると、山が見えるのですが、この山の向こう側は鎌倉です。少し頑張れば歩いて行けます。

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関東学院は創立から130年以上経つ伝統ある学校ですので、その周辺にもたくさんの歴史を感じることができます。

石井 充(コミュニケーション学科)