「はやりのメタ?」

最近、「メタバース(Metaverse)」という言葉をよく聞くようになりました。また、SNSとそのプラットフォームを提供する企業であるFacebookが、「メタ」(正式にはMeta Platforms)という名前に変わったということも、話題として記憶に新しいところでしょう。

このような、何かと話題の「メタ」という言葉ですが、その意味は「超える」といったものであり、実は哲学や思想の領域では大変馴染みのある言葉です。そもそも、古代ギリシアの哲学者アリストテレスの大著『形而上学』の原題が、ta・meta・ta・physika(英語ではMetaphysics)であり、ここから哲学は「自然」や「物理的なもの」(physika=physics)を「超え」(meta)た原理を探究する学問、というように捉えられるようになっていったのでした。

「メタバース」をめぐる議論は、その定義からして錯綜しているし、そもそも本当に(哲学などで使われている語義通りの)「メタ」なものなのかどうかを確定するのはあまり意味がなさそうなのですが、哲学や思想に馴染みがあると、「メタ」という言葉をなんだか全然知らないものとして当惑する、ということはないかもしれません。

コロナと不確実な世界

今年はCovid-19、通称新型コロナウィルスのパンデミックにより、世界のあり方が変わってしまいました。ニューノーマルという言葉は、すでに人口に膾炙したもののように思います。このパンデミックにより露見したことは、われわれの世界は、ますます不確実なものになりつつある、ということではないでしょうか。現代思想などでは、「ダーク」という接頭辞がついた言葉を、よく耳にするようになりましたが、これも「見通しのなさ」や「予測不可能性」、あるいは「実体のとらえなさ」などを表象しているのだといえるでしょう。そして、このような不確実性は、実は人間によってもたらされたものであることは、注意する必要があるでしょう。たとえば、近年大きな問題になりつつある、予測不可能な災害を引き起こす気候変動などは、人間の活動がそこに大きく絡んでいます。その一方で、そもそも80年代以降のグローバルな新自由主義経済は、ある種の不確実性を糧に成長して来たのであり、先進国はそういった資本主義にべったりと依存して来ました。しかし、このような新自由主義にとってさえ、包摂不可能な不確実性がCovid-19であり、だからこそ国家の力が復権して来たように見えるのだと思います。しかし、このように一見復権した国家の力は、果たして現在の危機に本当に対処できるのか。注視する必要がありそうです。

機内映画

今年の夏に、出張でイギリスを訪問しました。出張先では、ブレクジットに揺れるイギリス社会がどの様な状況にあり、人々がどの様な議論をしているのか、訪問先の研究者との交流も含めて、実際に経験する貴重な体験をしました。が、今回のコラムはその話ではありません。ここでは、出張に利用したカタール航空について、少しお話ししたいと思います。

カタール航空を利用した場合、まずはドーハのハマド国際空港まで飛び、そこから最終目的地まで飛ぶという経路を取ることになります。そうなると、自然にドーハから最終目的地までは、日本人の旅客が少なくなります。私が利用した際も、おそらく往路の日本人乗客は私一人くらいだったのではないかと思います。しかし、その様な便にもかかわらず、機内映画のラインナップを見て少々驚いたのは、日本のアニメが比較的充実していたことです。特に、私自身の研究対象でもある『ラブライブ!サンシャイン!!』の劇場版を見つけた時には、おお!と少し声をあげてしまいました。

アニメの世界的な人気が叫ばれて久しいですが、必ずしも日本人だけを対象にしているわけではないと思われるこの様なアニメの提供は、どこまで広まりを見せることができるのでしょうか。そしてそれは、どの様な意味を持っているのでしょうか。民間航空という、グローバリゼーションの発展において中心を占めているネットワーク・システムと、メディアのグローバル化という観点の双方から、興味深い対象の様に思われます。

資本主義と中国

8月の上旬に、国際学会への参加のため中国の上海を訪れました。

最後に上海に行ったのは2014年だったので、およそ4年ぶりとなります。初めて訪れたのは2007年であり、それ以来、訪れるたびに劇的に変化している街を前にして、目を見張るばかりです。

凋落していく日本を尻目に、アメリカと争うスーパーパワーとして台頭する中国の勢いは、上海においても如実に感じられました。

現地滞在中、とりわけ考えさせられたのは、これまでは資本主義との組み合わせにおいて、それともっとも相性の良いものとは、アメリカに典型的に見られるように(政治的・経済的な両面を含めた)自由主義であると見なされてきたのに対し、中国の台頭はそのような常識が覆されることを意味しているのではないか、ということでした。これは別に中国が自由な社会ではないという意味ではありません。むしろ、人々の行為や振る舞いなどをみていると、日本などよりもはるかに自由である局面の方が多いと思います。

ただ、重要なのは、そういった人々の自由を前提にしつつ(これは資本主義の発展のために核となる要素でしょう)、それを自由主義とは全く異なる形で、政治・社会・経済的に統治する方向性が中国では目指されているように思われるということです。これはまた、社会主義や共産主義といった言葉では理解できないものでもあると思います。このような、これまでの常識では捉えきれない隣人と、どのように向き合っていくべきか、我々はもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。

文化の政治性を研究することの醍醐味

2017年4月よりコミュニケーション学科に着任しました、川村覚文と申します。専門は政治哲学とカルチュラル・スタディーズです。関東学院大学に来る前は、ロンドン大学ゴールドスミス校というところで修士号を、そしてオーストラリア国立大学というところで博士号を取得した後、東京大学にある「共生のための国際哲学研究センター」というところで働いていました。

私が興味を持っていることは、文化の政治性という問題です。例えば、皆さんはマンガやアニメ、あるいはアイドルやファッションといったポピュラー文化・メディア文化を日常的に受容されていると思います。今日、これらは日本という国境線を超え、世界中で親しまれています。その結果、日本という国家のイメージ戦略に利用されてしまう一方で、人種やジェンダーあるいは階級の差異を超えた相互理解を促進する基盤にもなりうるものとなっています。このように、私たちが日常的に触れる文化現象がいかに政治性を帯びるものであるかということを、哲学的・理論的に考察するのが私の研究です。

哲学的・理論的にというのは、一体どういう意味でしょうか。哲学というと、何やら難しい過去の人の考えを勉強するというイメージがあるかもしれません。しかし、ここでいう哲学というのは、世界を動かしている原理について思考するということです。文化の政治性に関する研究は、一方で様々な問題が重なりあった形で関係していることを理解しつつ、それらの重なりあいを貫いている原理が何であるのかということを分析する必要があるのです。ポピュラー文化などの日常的な文化現象の分析を通して、世界を動かしている原理について理解できるようになるというのは、面白いことだとは思いませんか?

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川村 覚文(コミュニケーション学科)