閩南師範大学との連携プロジェクト(その2): ―中国閩南文化についてのフィールド調査・体験学習および文化交流

漳州市には古くから「漳州三宝(しょうしゅうさんぽう)」と称される3つの伝統的な名産品(宝物):「片仔癀」(明代の宮廷秘方を受け継ぐ中成薬)と「八宝印泥」(清の康熙年間に創製された、書道や絵画に使う最高級の朱肉)、「水仙花」(漳州市の市花)があります。これらはすべて、国の重要な文化遺産に指定されています。今回は「八宝印泥」の手作りを体験しました。「八宝印泥」は清代の康熙12年(1673年)に現在の福建省漳州市で創製され、のちに乾隆帝をはじめとする宮廷の朝廷専用品となりました。中国の国家級無形文化遺産にも登録されています。その手作り体験の一番の魅力は、五感で楽しむ贅沢な工程です。麝香や真珠といった貴重な天然原料を調合する際、部屋中に広がる高貴な香りに心が安らぎました。また、艾葉(よもぎ)の繊維を均一に混ぜ合わせる作業は想像以上に力が必要で、粘り気を見極める絶妙な力加減に職人の高度な技術を実感しました。完成した印泥は驚くほど鮮やかで深い赤色を放ち、時が経っても色褪せない強さを持っています。各自で一から作った世界に一つだけの工芸品は、最高の記念です。歴史ある名品に触れ、中国伝統文化の真髄を体感できる貴重なひとときとなりました。その他、無形文化遺産の布袋人形劇と木版年画、閩南風花かんざし、中国茶文化、切り絵、砂糖絵なども体験的に習いました。

今回の研修プロジェクトでは、閩南文化は単なる地方文化ではなく、中国伝統文化と海洋文化が融合した国際性の高い文化であることを理解しました。また、漳州では伝統文化を保護しながら観光資源として活用する取り組みも進められており、文化遺産保護の重要性についても学ぶことができました。日本と中国は長い歴史交流を持っており、特に福建地域は古代から日本との海上交流が盛んでいました。今回のプロジェクトは、中国文化への理解を深めるだけでなく、東アジア文化交流の歴史について考える貴重な機会となりました。

また、閩南師範大学外国語学部日本語学科との連携を通じて、隣国である中国の大学生と直接対話し、文化や価値観の相互理解を深める貴重な機会を得ました。「文化で出会い、交流で絆を深め」という主題で開催された歓迎会は、中国の豊かな伝統文化が随所に散りばめられた、非常に温かく記憶に残るものでした。異文化への誇りを持ちながら、私たちを家族のように温かく迎え入れてくれた彼らの配慮に、深い感銘を受けました。さらに「異文化コミュニケーション」という講義にも一緒に参加し文化的交流を行いました。交流の中で特に印象的だったのは、彼らの熱心な学習意欲と、将来に対する明確なビジョンです。日常会話から社会問題に至るまで、日本語を駆使して自らの意見を論理的に述べる姿に強い刺激を受けました。また、私たちが抱いていた「中国の若者」という固定観念とは異なり、アニメやSNSなど共通の趣味を楽しんでいる点も多く、同世代としての親近感を抱いました。今回の経験から、報道やインターネットの情報だけに頼らず、現地の人々と直接関わり、個人の多様性を知ることが真の国際理解につながると学びました。この交流で築いたつながりを一過性のものにせず、今後も連絡を取り合い、将来は両国の架け橋となるような活動に貢献したいとの感想が寄せられています。
今後もこの連携プロジェクトを実施して行きたいと考えています。

八宝印泥1
八宝印泥2
閩南風花かんざし
異文化コミュニケーション
布袋人形劇1
布袋人形劇2
木版年画
茶文化体験

閩南師範大学との連携プロジェクト(その1): ―中国閩南文化についてのフィールド調査・体験学習および文化交流

2026年度のコミュニケーション・プロジェクト科目は、中国福建省漳州市にある閩南師範大学外国語学部日本語学科と連携し、現地にて閩南文化についてフィールド調査を行い体験的に理解することと、中国大学の大学生と文化的交流を行うことによって相互的理解を促進することを目的として4月下旬1週間で実施しました。漳州は福建省南部に位置し、古くから「海上シルクロード」の重要な港湾都市として発展してきた地域であり、閩南文化の重要な発祥地の一つです。特に世界文化遺産の福建土楼や伝統的な宗教文化、戯曲、方言文化などは、独特な地域文化として高い価値を持っています。

閩南文化とは、福建南部を中心に形成された地域文化であり、漳州・泉州・厦門などの地域に広く分布しています。閩南文化は中原文化と海洋文化が融合して形成されたものであり、海外華僑文化とも深い関係を持っています。閩南地域では、伝統的な宗族意識が強く、宗教信仰も盛んでおり、媽祖信仰や関帝信仰、祖先崇拝などが現在でも人々の日常生活に深く根付いています。また、閩南語は独自の言語体系を持ち、台湾文化とも密接なつながりがあります。

今回の研修で最も印象的だったのは、福建土楼の一部に属する華安土楼群の見学です。福建土楼は世界文化遺産に登録されており、漳州には多数の土楼群が存在しています。中原(黄河流域など)の漢民族である「客家」が、戦乱や迫害を逃れて南下を始めた時代で、彼らは現地先住民の襲撃や山賊から身を守るため、強固な防衛機能を持つ集合住宅を造り始めました。土楼は土や木材を用いて建築され、防御機能と共同生活機能を兼ね備えた独特の建築様式です。土楼内部では、一族が共同生活を送りながら互いに助け合う生活様式が維持されており、中国伝統社会における家族観や共同体意識を深く感じていました。また、土楼は防火、防震、防盗などの機能を備えており、昔の人々の知恵と建築技術の高さに感銘を受けました。福建土楼は2008年に世界文化遺産として登録され、「世界民居建築の奇跡」とも称されています。

それから漳州古城を訪れ、まるで歴史の教科書の中に迷い込んだかのような深い感動を覚えました。この街の最大の魅力は、唐宋の古城、明清の街並み、そして民国期の建築風貌が美しく融合し、今も「生きている古城」として息づいている点です。精巧な彫刻が施された石の牌坊や、伝統的な閩南建築の赤いレンガの街並みを歩くと、長い歳月の重みが伝わってきます。単なる観光地ではなく、現地の人々が普通に生活を営んでいる姿が、古城に温かい生命力を与えていました。歴史の深みと人々の温かい暮らしが調和した素晴らしい空間であり、過去と現代が交差する独自の魅力を肌で感じることができました。

歓迎会1
歓迎会2
華安土楼1
華安土楼2
漳州古城1
漳州古城2
漳州古城3

日本最古の唐寺:長崎興福寺

長崎市と連携し多文化共生を理解するための教育活動を実施するきっかけで、長崎市を訪れる機会が増えました。長崎には、日本(和)、中国(華)、オランダ(蘭)の文化が混じり合って形成された、独特な文化「和・華・蘭文化」が存在しており、海外との交易や文化交流の歴史から、様々な要素が融合し、独自の文化として発展してきたことがよく知られています。今回は日本最古の唐寺(中国様式の寺)と称されている長崎興福寺を訪れ、中国文化の影響および日本文化との融合について見学しました。

興福寺は1620年(元和6年)に、当時、長崎には多くの中国人(特に福建省出身の唐人)が居住しており、彼らのための仏教寺院として創建されたそうです。創建者は中国福建省出身の僧・隠元隆琦の弟子である唐僧・真円でした。別名として「唐寺」とも呼ばれ、中国風の建築様式を色濃く残している点が特徴です。江戸時代、長崎は唯一の対外貿易港として中国やオランダと交流があり、興福寺は中国人の精神的拠り所となっていたようです。

興福寺の入り口に「山門」という建築物があります。唐風で総朱丹塗りの豪壮雄大な外観をもちますが、細部には和風様式を基調とする日本人工匠の手によるものも見られます。山門をくぐると、すぐに「本堂」(大雄宝殿)の厳かな雰囲気に圧倒されました。朱色を基調とした建物が印象的で、中国風の屋根の反りや装飾が特徴的です。「本堂」では、仏像や仏具がきちんと整えられており、訪れる人々の静かな祈りの場となっています。

境内には立派な「鐘鼓楼」もあり、当時の技術と美意識が反映された造りでした。屋根の鬼瓦は外向きが鬼面で厄除け、内向きが大黒天像で福徳の神という珍しいもの。「福は内、鬼は外」の意味と解される日本人棟梁の工夫であるそうです。庭園はよく手入れされており、池や石、植栽の配置が非常に美しく、静けさの中に和の精神が感じられます。

また他にも多くの文化施設(媽祖堂や三江会所門、旧唐人屋敷門など)があることから、興福寺は、ただの寺院ではなく、日本と中国の文化的・宗教的な交流の象徴でもあることがよく分かりました。境内には漢文の石碑が多数あり、中国から渡来した僧侶たちの名前も刻まれています。国際港であった長崎ならではの歴史の一端を感じました。

興福寺を訪れて、長崎という町がかつてどれほど国際的な場所であったかを実感しました。静かな境内にたたずみながら、当時の人々がどのように祈り、暮らしていたのか想像し、歴史に思いを馳せる貴重な体験ができました。また、異国文化を受け入れ調和させていった日本人の柔軟さと敬意の心にも感動しました。

山門
本堂
鐘鼓楼
庭園

 

長崎研修で孔子廟の見学から学んだ中国文化

コミュニケーション学科教育の特色であるPBLとしてのプロジェクト科目は、今年度も多文化の理解というテーマと設定し、履修する学生が約60名で大人数でした。4月と5月2回分けて長崎にて実施し、長崎市役所職員による講義のほか、出島やグラバー園、新地中華街、孔子廟を見学し、それぞれの歴史と文化について学びました。

今回は孔子廟の見学で見た中国文化の一部を紹介したいと思います。孔子廟は、1893年に中国清朝政府と在日華僑が協力して建てられたもので、春秋時代末期の思想家・儒教の創始者である孔子を祀った日本で唯一の本格的な中国様式の霊廟です。廟宇の随所に中国の歴史と文化、伝統芸術の粋がちりばめられています。まずは建物の色が印象的で、外壁は朱色、屋根は黄色となっています。朱色は中国の伝統色であり、魔除けと慶びを象徴する色としてよく使われています。中国の歴史では、黄色は皇帝の色を表していて尊ばれており、皇帝の衣の色は黄色に設定されていました。漢代以降、儒教が国教となり、孔子が歴代皇帝に崇敬され、皇帝と同等に扱われていたのです。

それから、正門となる儀門から大成殿(正殿)へと延びる左右に通路があり、通路の壁面には大理石に彫られた『論語』がびっしり貼られています。全20編、約500章、1万6018文字全てが彫られています。「故きを温めて新しきを知る」「十五にして学に志す、三十にして立つ」「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「これを知る者は、これを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず」などの名言がよく知られており、現代社会にも多大な影響を与えています。

また、儀門を通って中に入ると、右側にある展示物「宥坐之器(ゆうざのき)」が目を引かれます。体験をしてみますと、最初は傾いている器ですが、水を入れていくと、だんだんと水平になっていきます。そして、さらに水を入れていくと、器が傾き、水がこぼれてしまいます。「虚なればすなわち傾き、中なればすなわち正しく、満つればすなわち覆る」というのを表した器です。孔子の説いた「中庸(過不足がなく調和がとれていること)」 ということをこの器から体験で学ぶことができます。

そのほか、大成殿の奥には中国歴代博物館が併設されており、北京故宮博物院をはじめ中国各地の博物館が所蔵する国宝級の貴重な文物を常時展示しています。また、孔子廟では、年間を通じて、中国の伝統芸能である「変面」ショーや様々な式典、祭典が行われていますので、孔子や中国の歴史、文化を学ぶには絶好のスポットとなっています。機会があれば、ぜひ一度訪れてみてください。

大成殿(正殿)

 

儀門(正門)
宥坐之器(ゆうざのき)

長崎に足を運び「和・華・蘭」文化にふれるフィールドワーク

今年度春学期で開講されたプロジェクト科目のフィールドワークを多文化の理解というテーマで長崎にて実施しました。なぜ長崎を選んだのか。その理由は、長崎では鎖国時代に日本で唯一海外に港が開かれ、さまざまな人や文化が行き交っていました。その文化交流の中でも、日本の「和」、中国の「華」、オランダの「蘭」の文化が融合し人々の生活の中に浸透しており、街の中だけでも東洋と西洋文化を同時に学ぶことができるのです。

まず訪れた場所は、横浜・神戸と並ぶ日本三大中華街のひとつである長崎新地中華街、唐人屋敷、孔子廟です。長崎新地中華街は、江戸時代中期に中国からの貿易品の倉庫を建てるために、海を埋め立てて作られたそうです。現在、東西、南北あわせて約250mの十字路に中華料理店をはじめ、中国菓子や中国雑貨など約40店舗が軒を連ねています。唐人屋敷は、密貿易とキリスト教浸透を防止するため、幕府は1689年に建設し、貿易で長崎に来航した中国人たちをそのエリアに収容・隔離し出入りを厳しく管理していました。現在は土神堂・天后堂・観音堂と福建会館の4堂のみが残されています。孔子廟は、1893年に中国清朝政府と華僑によって建造され、春秋時代末期の思想家・儒教の創始者である孔子を祀った日本で唯一の本格的な中国様式の霊廟です。年間を通じて様々な式典や祭典が行われています。

次に出島とグラバー園を見学しました。出島は、幕府によって1634年から1636年にかけてポルトガル人を管理するために、オランダ人から建築技術を学び建設された人工島であり、鎖国政策の中で唯一開かれた西洋への窓口として機能していました。現在の「出島」には江戸時代の外観や内観を忠実に再現した建物があり、江戸と西洋の文化が混ざり合う唯一無二の場所となっています。グラバー園は、1859年の長崎開港後に長崎に来住したイギリス人商人グラバー、リンガー、オルトの旧邸があった敷地に、長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築し野外博物館の状態を呈している場所です。その中でも、旧グラバー住宅は日本の伝統的な建築技術と西洋様式が融合した、日本で最古の木造洋風建築として非常に重要な文化遺産となっています。

本研修に参加した学生からは以下のような感想が寄せられています。「長崎は多様な文化と共生することによって、唯一無二で魅力的な場所が多くありました。研修を通し、様々な文化に触れ、異文化への理解を深めることができました。」、「長崎に実際に足を運ぶことによって、現地の人々の温かさを感じることができ、中国とオランダの文化を学ぶ貴重な経験ができました。」、「日本特有の文化を守りつつ外国の文化も取り入れて今日まで発展してきた長崎は、日本だけではなく世界の手本にされるべきであると思います。次に長崎に行くときには、ランタン祭りや変面ショーも楽しみたい。」

2023年11月に本学は長崎市と包括連携協定を締結しました。これを機に、今後長崎市と連携し社会教育の学びのフィールドとして様々な実践活動を展開していきたいと思います。

日本三大中華街の一つである神戸南京町について

コロナの影響で2022年度も引き続き中華街を対象としプロジェクト科目(コミュニケーション・プロジェクト8)を実施しました。今回は横浜中華街に加えて神戸南京町の形成と現状についても理解することを目的とし、6月中旬実地調査を行いました。参加した学生の感想の一部を紹介します。「中華街を中心に中国古来の歴史や建造物、食事などに触れ中国文化を学べたと思いました。実際に横浜中華街、神戸南京町に行きそれぞれの違いや共通点、中国ならではの特徴などさまざまな発見をすることができました。」「中華街といえば横浜で、勝手に横浜中華街しかないと思い込んでいたので、プロジェクト科目を通じて神戸と長崎にもあることを知った。また、今まで中華街に行くとなったらほぼ食の楽しみしか目的にしていなかった。しかし建物の作りや伝統的な行事、四方を囲む牌楼など日本にいながらまるで中国にいるかのような文化がそこには存在していることを学んだ。そして同時に、日本にこのような中国文化が華僑をはじめとする人々のお陰で有することから日本と中国の関係の深さを身に染みて感じることができた。」

 

【南京町の形成】1868年(明治元年)に神戸が開港し、10余りの中国人(当時清国人と呼ばれていた)が貿易目的で長崎から神戸に移住してきました。日本と当時の清国の間は条約を締結していなかったため、清国人が外国人居留地に住むことができず、その隣の元町の南に集中して住居を構えました。明治10年頃、この町のいくつかの狭い路地に雑貨商、豚肉商、飲食店、漢方薬店など様々な店舗が軒を並べ、このほか塗装職、洋服職、船員など雑業の職人達が雑居して、中国人の町のようになりました。その頃にはすでに「南京町」と呼ばれ始めたそうです。「南京町」という名前は、当時の日本人が中国から来た人や物を、親しみをこめて「なんきん(さん)」と呼んだことに由来し、横浜でも戦前は「南京町」と呼ばれていましたが、戦後に「中華街」と名前を改めています。神戸では、伝統ある名前に誇りを持った人々が、変えることなく現在も使い続けています。

 

【南京町の現状】現在の神戸南京町は十字路になっていて、中央の広場には「あずまや」、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「海栄門」という名前の門(牌楼)があり、北は元町商店街につながります。東西約280メートル、南北約110メールの範囲に、料理店や軽食・食材店、趣味・雑貨店など100余りの店舗が軒を連ねています。横浜中華街と比べると規模が随分と小ぶりですが、中華街らしい雰囲気を楽しめる人気の観光地となっています。リーズナブルな価格で手軽に食べられる中華料理が多く、また、テイクアウト形式のお店が増えていますので、少しずつたくさんの料理を楽しむのが特徴です。

南京町では、毎年1月から2月下旬、中国の旧正月を祝う春節祭が開催され、町全体がお祭りの会場となり、獅子舞や龍舞、中国舞踊、太極拳の演武などさまざまな催し物が全国から多くの観光客を集めています。現在春節祭は地域無形民俗文化財に指定され神戸を代表するイベントになっているそうです。これからも神戸華僑の人々が日本人社会と一層良好な関係を築き、南京町の更なる発展を推進していくことを期待しています。

神戸南京町、加油(頑張れ)!

 

 

 

 

横浜中華街は中華料理の街だけではない

「今までは、横浜中華街といえば、中華料理というイメージしか持っていなかったが、そうではないことがよくわかった。」「中華街から食文化以外の中国文化も学ぶことができた。」「中華街で初めて気づいたことが多かった。」「これから中華街に行ったら、料理以外のものにも注目したい。」これらは私が担当しているプロジェクト科目(3年次春学期)を履修した学生たちの感想の一部です。本来なら、中国現地で文化の調査・研修を行うべきでしたが、コロナ禍の影響で横浜中華街から中国文化を学ぶことに変更し、歴史や文化などについて事前学習をした上で、6月下旬現地調査を実施しました。ここでは、中華街のシンボルの一つである「関帝廟」を紹介したいと思います。

「関帝廟」は中華街の関帝廟通りと中山路の交差点の場所に位置し、三国志で有名な武将である関羽が主神(関聖帝君)として祀られているお寺です。関帝(関羽の別称)は、中国で最も信仰を集める神で、孔子を祀る孔子廟を「文廟」というのに対して、関帝廟を「武廟」と呼ぶ場合もあります。中国国内はもちろん、世界中の中華街(チャイナタウン)に必ずあるといってもよい寺院です。関聖帝君は優れた将軍であるだけでなく、古代中国で広く使われた算盤の発明者でもありました。苦難に立ち向かう誠実さ、強さ、勇気の象徴であり、今日では、一般的に商売繁盛と富の繁栄をもたらす神として崇められています。

1871年に建立された初代の関帝廟は1923年の関東大震災で、二代目は1945年に第二次世界大戦中の空襲で焼失しました。三代目の廟も1986年に原因不明の火災に見舞われました。現在の建物は、四代目として1990年に再建されたものです。150年歴史のある関帝廟は、華僑、華人のシンボルであり、心のよりどころで、幸せを願う場所であると共に、廟の屋根の上に地球を掲げていることにより、世界平和を祈り、全ての人々を受け入れる場として発信しています。

横浜中華街は160年あまりの歴史を歩んできました。その中で、関東大震災や大空襲など極めて困難な出来事に遭遇してきたにも関わらず、国や文化を超えてみんなで一致団結し、再建・復興・振興に努力し続けてきたからこそ、現在の横浜中華街があると思います。本調査を通して横浜中華街は、もはや中華料理の街だけではないことを再認識しました。

 

 

 

 

ソーシャルディスタンスと人の心理

新型コロナウィルス感染防止対策として、3密を避ける、ソーシャルディスタンス(社会的距離)を確保するといった言葉をよく耳にしています。3密とは、1)密閉空間(換気の悪い空間)、2)密集場所(多くの人が集まる場所)、3)密接場面(互いに手を伸ばしたら届く距離での会話や発声をする場面)を意味しています。ソーシャルディスタンスとは、飛沫感染を防ぐために相手と一定の距離をとることであり、大体2m程度の距離であると主張されています。

心理学では、パーソナルスペース(個人空間)という言葉があり、他人に近付かれると不快に感じる空間のことです。対人距離とも呼ばれています。たとえば、電車のなかで、席がたくさん空いているにもかかわらず、ある人が自分の隣に座ったら、違和感を生じてしまいます。それは自分のもつ空間が侵害されたからです。人と人の間に適切な距離が求められており、物理的距離と心理的距離によって大きく4つに分類されています。1)親密距離:45㎝以内、相手の匂いや体温が感じられる距離、親子、恋人、夫婦がこの距離にいることが許されます。2)個体距離:45~120㎝、手を伸ばせば触れることができる距離、親しい友人同士の会話でとられる距離です。3)社会的距離:120~360㎝、フォーマルな会談や社交の集まりの距離。4)公衆距離:360㎝以上、講演会などでの講師と聴衆の距離です。コロナ感染防止対策で求められているソーシャルディスタンスは対人距離のなかの社会的距離にあたります。

なぜソーシャルディスタンスの確保が呼びかけられているのか?それは、物理的距離と心理的距離の許容範囲は外部の環境や状況によって変わってしまうという特性があるからです。たとえば、知らない人と同じエレベーターに乗るときに、社会的距離が満たされていないのに、不快感はほとんど生じないといった経験があるでしょう。また、スーパーや飲食店、公共交通機関などの場所でも同様に感じられています。固定されている空間のなかで活動している人々の心理的許容距離がそれによって縮まってしまうことがその原因だと考えられます。通常の場合はほとんど問題がないのですが、コロナ感染拡大のリスクがある状況においては、やはり人との接触に社会的距離を確保することが有効な対策であり、日常生活のなかで意識しながらその距離を保つように心掛けることが必要となるのです。

一方、ソーシャルディスタンス確保論に反対する声も上がってきています。本来親密距離での親族と個体距離での友人は、このような状況では、いずれも社会的距離を保つ相手となってしまい、過剰に自粛していれば、人間同士間の心の距離が次第に拡大されてしまうことが危惧されているようです。「新しい生活様式」が推奨されているなか、いかに感染防止対策としてのソーシャルディスタンス確保と人々の交流を対立させないか、これから取り組むべき課題となります。

横浜関内キャンパスへの移転と中華街

2年後、2022年4月に人間共生学部コミュニケーション学科がJR関内駅近くに開設される新キャンパスへ移転します。経営学部と法学部も移転する予定となっていますので、利用学生数は約3000人を見込みます。新キャンパスは本来の教育機能に留まらず、市民の知的・文化的・スポーツ活動を支援するためのスペースも設置され、市民との交流の拠点にもなります。また、関内周辺は、行政機関や企業のオフィス、商店などが集積しており、観光資源も豊富な立地なので、それらを生かした「社会連携教育」を推進することも期待できます。

新キャンパスから歩いて約10分の場所には横浜中華街があります。中華街はかつての開港時代に西洋人とともに来日した中国商人たちが作り上げた街に始まり、今や日本はもとより東アジアでも最大級の規模を誇るチャイナタウンとなっています。エリア内には約500軒もの店舗が立ち並び、様々なテーマやコンセプトを掲げる飲食店が訪れる観光客を日々楽しませています。

中華街は中国の伝統文化が溢れている街でもあります。例えば、エリア内には現在、10基の牌楼(門)が建っています。大通りにある善隣門は、テレビや雑誌などでよく見かけていますが、その他に9基もあり、中でも東南西北の4基には深い意味があるそうです。東は「朝陽門」(チョウヨウモン)、日の出を迎える門です。山下公園側にあります。西は「延平門」(エンペイモン)、平和と平安のやすらぎが末永く続くことを願う意味を持つ門です。JR石川町駅から来ると2つ目の門になります。南は「朱雀門」(スザクモン)、厄災をはらい、大いなる福を招く意味を持つ門です。元町側にあります。北は「玄武門」(ゲンブモン)、子孫の繁栄をもたらす意味を持つ門です。横浜スタジアム側にあります。それぞれの牌楼(門)は中国の古代科学による風水思想に基づいて建てられており、人々の安全や健康、繁栄、平和を守り続けています。

また、「春節」(旧暦の正月)や「元宵節」(旧暦1月15日、日本でいうところの小正月にあたる日)、「中秋節」(旧暦の8月15日、月見・十五夜にあたる日)など中華圏で重要な祝祭日にさまざまなイベントや行事が行われます。例えば、春節初日「採青」(ツァイチン)という恒例のイベントがあり、夕方から夜にかけて横浜中華街全域で5頭の獅子が各店舗をまわりながら獅子舞を披露し、各店舗の商売繁盛や五穀豊穣を祈ります。中華街は現在、日本国内だけではなく、世界多くの国からの観光客も増えており、異文化交流の場所にもなりつつあります。

2年後、新キャンパスの学生たちがこの街で何を学べるのか、そしてこの街に何を貢献できるのか、これから考え始めなければなりません。

 

2019年度中国語・中国文化体験プロジェクト科目の実施

2019年5月末より中国語語学研修および中国文化体験学習を目的としたプロジェクト科目を中国江蘇省常州市にある常州大学で実施することを予定しています。選考された19名コミュニケーション学科の学生がこのプロジェクト科目に参加し、10日間にわたって、毎日午前中国語(日常会話など)および中国文化について学び、午後中国文化体験(書道、切り絵、太極拳など)や名所・遺跡の見学調査を行います。また、常州大学日本語学科学生との交流活動(餃子つくりなど)もプログラムに組み込まれています。

常州市は中国江蘇省南部に位置し(上海から西へ新幹線で50分ほどの距離)、2500年の歴史を誇る風光明媚な街で、名所・旧跡が多くあり、皇帝15名、状元(科挙制度の成績が全国一位)9名など偉人・名士を輩出した地として知られています。古くから織物が有名で、綿刺繍など工芸品を主な産業として栄えてきました。現在常州市の人口は約470万人、経済・文化領域の発展が未だに著しく続いています(1人あたりGDP約2万ドル)。上海ほど人件費や工場用地のコストがかからず、日本へのアクセスが便利な上海からもそれほど離れていないので日系企業に人気の進出都市のひとつにもなっています。

常州大学は経済経営学部、法学部、外国語学部、国際教育交流学部、芸術学部、環境安全工程学部、情報科学学部、材料科学部、石油化学工程学部、機械工程学部など14学部をもつ総合大学で、約26000名の学生(3000名の大学院生を含む)が在学しています。近年、積極的な国際交流を進めていて、日本、米国、英国、カナダなど世界の20余りの国と地域の高等教育機関との間で協力関係を築いています。本学との間では交換留学とダブルディグリー協定を結んでおり、大学院生の共同教育プログラムや国際インターンシップなどの開発も積極的に進めています。

学生交流
春秋淹城遺跡
常州市天寧寺
常州大学キャンパス