「自分」を信じる力

これまでは、何回かここに書いてきたものは「……を疑う」と題するものでした。これまで疑ってきたものは、「初志貫徹」、「オリジナル信仰」、「効率主義」、「既成概念」、「日常」。

それは、僕が日頃接する学生の皆さんの多くが、世の中に流布している情報や教えをあまりにも素直に受け入れているような気がしたからでした。その反面、自身のことはあんまり信じていない、というか自信がないようにも見えるのです。

そこで、今回はこれまでとは違って、「自分」を信じるということについて書いておこうと思います。

過信は禁物だけれど、自分の感性、あるものに接したときに感じたこと、見たときに思ったことをもっと大事にした方がよい。自分の中で生まれたものを大事にしないで、外からの情報、権威に頼るというのはやっぱり寂しいし、ほんとうに「わかった」ということにはならない。たとえば、絵画を観た時に自身の感性よりも、教えられた知識を思い出そうとしたりすることはありませんか。

何より、自分を信じて取り組むことでわかることがあるし、生まれるものがある、と考えるからです。

自分にできるかしらと考えて躊躇するより、好きだから、やりたいからと飛び込んで、いい結果を手にした卒業生も知っていますし、逆にあまりにも謙虚で臆病になりすぎために、結果的にそこから遠ざかってしまった例も見てきました。

効率や安全を求めるあまり第1歩を踏み出すことができないままでいる、ということはよくあることです。ただ大抵の場合、十分にわかってから始めようとしたら、なかなか始められない。これはどうなっているのだろう、あれはどうだ……。いつまでもきりがありません。

できるかしら、才能が……と思うばかりでは、何も手にすることができないまま、時が過ぎていく。やってみて、うまくいかなければ、やり直せばいい。

何より、人に教えられた通りに理解しようとするよりも、自分が感じたことから出発して、これ育てようとする方が嬉しい。あるいは、言われたことをやるばかりよりも、自分がやりたいと思ったことに取り組む方が楽しいし、力が入るに違いない。

 

さて、それまでをどう過ごすか、どう乗り切るのか。それが問題です。

 

今まで、「人の言うことを気にするよりも、自分のやりたいことを」と言った人は何人もいたはずですが、皆さんが知っている人で誰かいないかと思って検索してみたら(でもこういうところが、僕がすでにダメなような気もしますが)、意外な人の言葉がありました。たとえば、W・A・モーツァルトは、「他人の賞賛や非難など一切気にしない。自分自身の感性に従うのみだ」(“I pay no attention whatever to anybody’s praise or blame. I simply follow my own feelings.”)と言っているよう*です。この他にも、ビートルズを抑えてトップになったレッド・ツェッペリンも「誰がなんと思おうと、決してわき目を振ることはなかった。……流されることはなかった」と、親交のあったミュージシャンは語っています**。

念のために付け加えると、人の言うことを聞くなというのではありません。しかし、今の自分のままでいいと言うつもりでもないのです。最終的には、あなた自身が決めるしかないということなのです。

ところで、「モーツァルトは天才だから」と思ったあなた、彼はこうも言ったようですよ。「私は生涯で一度も、独創的なメロディーを作ったことがない***」、「わずかな違いを大切に****」。そして、ここに挙げたようなことは、何もモーツァルトだけじゃなく、多くの先人たちも異口同音に言っていることなのです。ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズも自伝の中で、同様なことを書いています。

何事も、やって見なくちゃ始まりません。逡巡しているばかりではどうなるものかわからない。まずは、自分の眼と心を信じることから始めればいい、と思います。どうか、可能性の芽を自ら摘まないために、自身を鍛えてください。

 

*https://www.goodreads.com/author/quotes/22051.Wolfgang_Amadeus_Mozart

http://fukushima-net.com/sites/meigen/1824

東西の多くのサイトで引用されていましたが、引用元が不明で信ぴょう性の確認はできません。それでも、真偽を問わずに励まされる言葉だと思います。

** 「 SONG TO SOULE #5『天国への階段』」(BS-TBS)の中で、フェアポート・コンヴェンションのデイブ・ペグ。

*** https://note.com/hisatune/n/n661903d3a9eb

**** https://meigen.club/wolfgang-amadeus-mozart/

 

「疑い」こそ想像の源 − 日常を疑う

教員コラムでの「……を疑う」シリーズ第4弾です。「えっ、信じるんじゃなくて……?」と思いましたか。あなたは、きっといい人に違いない。でもね……。

始めは、「人は住宅にしか住めないか」という題で書こうとしていたのですが、その前に思い出したことがあったので、こちらについて。

設計演習(とくに低学年)の案を学生と一緒に検討する時によく見られる場面の一つには、以下のようなやりとりがあります。

「どうして、こうしたの?」

「家がこうなんです」

「でも、こうする方が気持ちよく使えそうでしょう?」

「はい。でも、家がこうだし、友だちの家もこうなっていたので」

たとえば、シンクと冷蔵庫がちょっと遠いような場合でも、彼または彼女はなぜそれが問題になるのか不思議なよう。「だって、普通でしょ? 家がそうだもの」というわけです。すっかり馴染んでしまっているせいで、さほど不都合を感じることがない。

日常的な経験や慣れは手強い。他の経験が乏しい場合はなおさらです。

そして、それらが悪いというわけではありあません。と言うか、むしろとても大事にすべきことだと思うのです。が、ただ、これを絶対視している限り、新しいアイデアや場面は生まれないし、今までに見たことのない景色をつくり出すことは出来ない。

自身が経験し慣れ親しんだものとは異なるものを積極的に見て、それらを比べる(つまり相対化する)ことによって、それらの良い点や悪い点を把握し、その後で何かをつけ加えたり、減らしたり、変化させたり、あるいは全く違ったものとするのが良い。すなわち、もっと良くしたいと思うならば、今あるものを当たり前としないで、「疑う」ことが大事な役割を果たす、と思うのです。

手始めに、みなさんがあって当たり前、ないと困ると思っているもの、たとえばスマホの電源を一度切ってみると良い。そのことが生活のありようにどのような変化をもたらすのか、あるいはもたらさないのか。実際に試してみる、体験してみるのが一番です(自分が望ましいと思う生活にとってどちらがより相応しいか、良いか悪いか考えるのは、その後で)。これは誰もが、簡単に出来ることです。

住まいのことで言えば、たとえば部屋全体を明るくする天井灯を消して、小さなスタンドライトなどだけを点灯してみるのです。テレビを消してみるのもよいかもしれません。きっと、慣れ親しんだ生活空間が違って見えるはず。きっと、その違いに驚くのではあるまいか。

1年生の作品:模型写真

1年生が初めてインテリアをデザインする演習では、与えられた空間を、お風呂や洗面所・トイレの水廻りスペースを除いて(これだって、必ずしも除かなくてもと思うけれど)、壁やドアを使わないで家具で仕切ることによって必要なスペースをつくりだし、しかも訪問客があった時のプライバシーも確保するという課題をやりました。

すなわち、寝る場所と寛ぐ場所を壁で仕切られた部屋としてはいけない。プライバシーを守るのに、壁やカーテンを用いることはできない。当たり前と思っていたやり方を禁じられた学生たちは、当初はいちように戸惑っていたようですが(何しろ初めてのことですから)、家具の置き方一つで、生活の仕方も景色も変わるということに気づいて、やがて面白いものが出来てきます。

日常を大事にするのと同様に、その一方では日常の当たり前を疑う目と心を持つことが、デザインするためには欠かせない。そして、それこそが日常を豊かなものに変える力となる。念のために付け加えるならば、これは奇抜なものをつくりなさいということとは全く異なることなのです。

椅子は座るためのもの?−既成概念を疑う

当たり前ですね。「椅子は座るもの」。そう思っている人が殆どだと思います。

学生たちに訊いても、まずそういう答えが返ってくる。したがって、たいていの場合、椅子の評価はまず座り心地。それからカタチ、材料となるのではあるまいか。「いちばんいい椅子は何ですか」というよくある質問も、たぶんこのため(使い方も座り心地の指標もたったひとつしかないかのようです)。

でも、モノ(椅子)はひとつの機能だけではないし、椅子は座り心地だけで評価されるものでもありません。 おまけに、その座り心地でさえいろいろある。 仕事をするための椅子とくつろぐための椅子とでは求める座り心地や形が違います(ソファで仕事はできません)。

「えっ」という声が聞こえてきそうだけれど、そういう人だって実は経験しているはずなのです。たとえば、カジュアルな服とドレッシーな装いは場面に応じて着分けているはずだし、プリントされた絵柄が気に入っているお皿だって、飾ったりするのではありませんか。

だから、椅子についても、お皿と同じように考えて飾ってもいいというふうに思いつくのは当然です(そうでしょう?)。あるいは、モノを飾るための台、スペースとして使うのだってぜんぜんかまわない。もちろん、他のものについても同じこと。

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座ることを目的としない椅子は、たとえば倉俣史郎作「ミス・ブランチ」、アレッサンドロ・メンディーニの「ラッスー」等があります。映画やテレビドラマにも登場したチャールズ・R・マッキントッシュのラダーチェアも座れないことはないけれど、むしろ眺めたり、飾ったりするのに向いている。写真のジオ・ポンティ作の超軽量椅子スーパーレジェーラもそんな気がします(アルヴァ・アアルトのスツールは小さなコーヒーテーブルのようにも使えます)。

先入観を捨てて、ちょっと見方を変えて物事に向き合えば、きっとあたらしい発見があるはずです。レポートや課題に取り組む時も実生活の場面でも、常識や既成概念の束縛から離れて自由になろうと心がけるのがよい、と考えるのです。

ところで、この時期の3年のゼミ生は、横浜シルク博物館で開催される「シルキー・ウィンター・フェスティバル」の会場構成の準備の真っ最中。12月1日から1月8日まで開催です。本コラムがご覧頂ける時にはもう過ぎていると思いますが、メインエベントの12月17日には本学科山﨑ゼミの学生によるファッションショーもあり、このためのインスタレーションも行っています。