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教員コラム

2018.08.25 - 共生デザイン学科  教員生活40年

私は来年2019年3月で定年を迎える。それで、これが私の最後の「教員コラム」となる。

哲学の教師として40年近い教員生活を送ってしまった。なんと長い日々だったことかと、我ながら呆れる。その間、多くの人と出会いがあり、色々なことがあった。学生諸君との語らいは楽しかった。卒業生諸君とのつきあいは今も続いている。すっかり社会人に成りきっているように見えるが、学生時代を残しているのを見るのも面白い。かれらが私に遠慮なくズケズケ言うのを聞くのも楽しい。

学生諸君とは別に、私が若かった頃の文学部の年長の先生方はとりわけ想い出深い。硬軟とりまぜて実に多くのことを学ばせていただいた。良い時代をご一緒させていただいたのは、本当にありがたいことであった。

哲学とのつきあいは学生時代からなのでさらに長い。その長い間につきあい方に変化があった。最初はドイツ観念論、ヘーゲル、ハイデガーなどと肩肘張っていたが、だんだん仕組みが分かって来ると、そうした不必要に込み入った、ハッタリじみた議論より、モンテーニュのような知恵の哲学に惹かれるようになった。また、結構早い時期に老荘思想にも魅力を感じるようになった。

西洋哲学の基礎には古代ギリシアの思想があり、これは老荘と共通するからであろう。モンテーニュの教養は、古代ローマとギリシアによって培われている。結局私は、哲学の祖先へと遡ったことになろうか。

学生諸君とのつきあいの他に、小学生、高校生、それに社会人の方々とのつきあいも私の人生を楽しいものにしてくれた。

小学生とのつきあいは、まだ6年ほどだ。岡崎校長先生と当時の森嶋校長先生のおかげである。幸いなことに、子どもたちとの哲学の授業を本にすることが出来た。『ぼくたち、なんで生きているんだろう』(電波社、2018年)だ。

世間には子どもの素朴な質問に哲学者が答えるタイプの本が多いが、この本では、副題の「実況『子どもの哲学』教室」が示しているように、子どもたちの生の議論を再現しようとつとめた。これに私が「あとで一言」と称してコメントをつけてみた。

毎回子どもたちの豊かな発想に驚かされる。「正解がないので何でも言える」、「友だちがそんなこと考えていたのか、と知ることが出来て楽しかった」、「自分の意見にこたえてくれてうれしい」、などの言葉が私を感動させた。

高校生とのつきあいは10年を越える。昔から寺子屋をやるのが私の夢だったが、それが思いもかけない仕方で実現した。冨山校長先生のおかげで「寺子屋」と称して倫理の90分授業を毎週やっている。彼らとの議論は私には新鮮である。

社会人の方々との出会いは大学の公開講座がきっかけである。「哲学初歩」シリーズは、今年の春で25回を数えた。春、秋と年に2回行うから、13年目である。それぞれ6~7回話すので相当の回数話したことになる。(今年の秋には「寺田寅彦のエッセイを読む」と題して話すことになっている。)

ヘーゲルやカント、ハイデガーやニーチェについて話したこともある。デカルトやジンメル、マルクス・アウレリウスや西田幾多郎、漱石についても話した。図々しいものである。また、死について、政治と哲学について、愛について話したこともある。愛については、残念ながらうまくいかなかった。私がその方面に疎いこともあるが、そもそも愛は語るものではないのかも知れない。

講座の後には懇親会があるので、相当語り、相当飲んだことになる。飲むと言えば、学生諸君ともよく飲んだ。学生諸君は私が酒好きだと誤解しているようだが、実はそれほど好きではない(と思う)。

また7年ほど前から、放送大学の神奈川センターで授業を行っている。講義が終って拍手を受けるという体験をしたのはこれが初めてだった。妙だと思ったが、朝10時から午後5時15分までの集中講義がおわって、みなさんやっと終わったと、ついうれしくなるのであろう。

この神奈川センターでは、「哲学カフェ」と称するゼミも開講している。誠に多様で、かつ熱心な学生のみなさんとのつきあいは楽しくもあり、また大変勉強になる。大学しか知らない私と違い、みなさんは現実世界で豊富な体験をしておられる。そこから出てくる言葉は誠に興味深い。拙著『ぼくたち、…』を買って下さり、お祝いの会を開いて下さったのもこのゼミの方々であった。

想い出は尽きない。つい長くなってしまった。

あと一言述べて終わりにしたい。

この頃学生諸君が、「哲学は役に立ちますか?」と私に聞くようになった。これまでなかったことで驚いている。こう言ってはなんだが、それは端的に、はしたない。しかし、今日の学生諸君には、目の前の成果が期待できないものに貴重な時間を使う余裕がないのだろう。それと気づかないまま、追い詰められているのかも知れない。

「役に立つ」という価値基準が支配する社会で生きていくのは大変なことだ。絶えず「役に立つか?」と冷酷に問い続けられ、責め続けられる生活に人は耐えられるであろうか。大学教育から人文系の学科を放逐しようとする現政府の方針の背後には、この「役に立つ」原則が働いている。そのうち「役に立たない」人間を排除するようになるだろう。その兆候はすでにある。

これに対抗するのが人文科学であり、哲学であり、文学をはじめとする芸術だろう、と私は信じている。「旧人」の戯言と一蹴されるのはもとより覚悟の上だ。

小学校時代のあのおう盛な好奇心を思いだしていただきたい。「なぜ?」「どうして?」「何?」と問うて、手持ちのすべての経験と知識をつかって楽しく挑んでいた君たちは、どこへ行ったのか。

T・S・エリオットが「岩のコーラス」のなかで次のように歌っている。

Where is wisdom we have lost in knowledge?

Where is knowledge we have lost in information?

われわれが知識のうちに見失った知恵はどこにあるのか?

われわれが情報のうちに見失った知識はどこにあるのか?

今日、「役に立つ」とされるのは情報である。人は考えることをやめてネットに情報を求める。知識人と呼ばれた人たちはマスコミから消え、評論家と称する情報家が無責任に何でも語る。そして知恵は、あったことさえ忘れ去られているようだ。

本を読み給え。現実を味わい給え。そして自分の頭で考えよ。これが私の諸君への最後のメッセージである。